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出エジプト記20章「心の中にいらっしゃる神様」

あなたは隣人の家をむさぼってはならない

出エジプト記20章17節

17. あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。

いつものようにヘブライ語での意味を見てみましょう。

「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」は「לֹא תַחְמֹד בֵּית רֵעֶךָ」(ロー・タハモード・ベート・レアハー)となります。

  • 「לֹא」(ロー) … 〜してはならない(絶対的禁止)
  • 「תַחְמֹד」(タハモード) … あなたはむさぼる(未完了形・2人称単数男性)
  • 原形は「חָמַד」(ハマド)
  • 「בֵּית」(ベート) … 〜の家
  • 「רֵעֶךָ」(レアハー) … あなたの隣人

この戒めは「いいなぁ」と思うだけの軽い感情ではありません。聖書における「ハマド」には、きわめて具体的で重いニュアンスが含まれています。

「ハマド」=「獲得への意志を伴う激しい欲求」

ヘブライ語の「ハマド」は、単に目で見て「いいな」と思うだけでなく、「それを自分のものにするための行動に直結する強烈な衝動」を指します。

聖書の中で「ハマド」が使われるとき、多くの場合「見る」→「むさぼる(ハマド)」→「取る」という一連の動作がセットになっています。

つまり、聖書における「むさぼり」は、心の中で完結する淡い憧れではなく、「手を伸ばして奪い取る一歩手前の、制御不能な渇望状態」を意味しているのです。第8戒「盗むな」のトリガーが引かれる直前の心の状態といえるでしょう。

「家」の範囲

「隣人の家(ベート)」とありますが、これは建物としての家屋だけを指すのではありません。古代イスラエルにおいて「家(ベート)」とは、「その人の生活基盤すべて」、すなわち「ハウスホールド(世帯・家計)」を意味します。

この後の節で「妻、しもべ、牛、ろば…」とリストが続きますが、これらは「家(ベート)」に含まれる具体的な内訳です。つまり、「隣人の家をむさぼるな」とは、「隣人が築いている生活の平和、所有する財産、育んでいる人間関係、社会的地位、そのすべてを自分のものとして欲しがるな」という意味になります。

むさぼりとは

「むさぼり」は心の中で犯す罪ですから、他の戒めと異なり「裁判官が裁けない罪」であることが最大の特徴です。

警察も裁判所も、「あの人が心の中で私の家を欲しがっています!」と訴えても逮捕できません。

しかし、神様だけはその心をご覧になっておられます。他の誰にもできない、神様だからこそ心の罪を見抜き、そして「むさぼってはいけません」という教えを与えてくださるのです。

この戒めは、表面的には人と人との間の在り方を示すものでありながら、同時に神様との個人的な関係が問われる、きわめて奥深い戒めなのです。

誰に対する戒めか

これは誰に向けた戒めなのでしょうか。まず、原語のヘブライ語を見てみましょう。

  • 「חָמַד」(ハマド) … むさぼる
  • 「תַחְמֹד」(タハモード) … あなたはむさぼる(未完了形・2人称単数男性)

このタハモードは男性に対する言葉として定義されています。つまり、男性形です。

古代社会の「家長」システム

十戒が語られた古代イスラエルは父系社会でした。契約の当事者として代表に立つのは、一族のリーダーである「男性(家長)」でした。

第10戒を見ると「隣人の妻、しもべ、…」とあります。もし、この戒めが女性(妻)に直接向けられた文章なら、「隣人の夫」と書かれるはずですが、そうはなっていません。

これは、この戒めが「家の代表者である男性」に対して語られていることを示しています。「お前たちリーダーがまず襟を正せ!」ということですね。

女性はこの戒めの対象外か

創世記3章6節

6. 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実をとって食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

創世記でエバが蛇に唆されて食べてはならない木の実を見て「好ましい」と思いました。これは人類最初の「むさぼり」です。

この「好ましい」はヘブライ語で「ネフマド」となり、十戒の「むさぼる」(ハマド)と同じ語源です。

聖書は最初から、「女性も(もちろん男性も)、見て、欲して、取ってしまう性質がある」ことを描いています。ですから、十戒の文法が男性形であっても、その精神はすべての「人間」に向けられているのです。

隣人とは誰か

隣人とは、具体的な関係の中に生きる私たち一人ひとりです。

家族、同じ共同体、同じ生活圏の人々、そして神様が私たちに出会わせるすべての人を含みます。

隣人とは顔の見える人を指しますが、現代においてはSNSのように顔の見えない相手であっても、一度言葉を交わした瞬間、その人は「隣人」となります。

罪の構成

前々回と前回で学んだように、十戒の最後の三つはそれぞれ「心」「言葉」「行い」の罪に対応しています。罪はまず『心』に芽生(めバ)え、『言葉』となって外に現(あらわ)れ、最後に『行い』で形(かたち)となってしまいます。この三段階で罪を重ねるため、それは非常に重大な罪となるのです。

心は罪の根源です。罪はここから生まれ、ここで罪を犯したことを知り得るのは、本人と神様だけです。

心の中で思った罪が口から溢れ出て、人を傷つけたり悲しませます。

一度口から外に出てしまった罪はもう取り消せません。場合によっては取り返しのつかない事態を招き、あなたは激しく後悔し、そして裁かれます。

最後に罪は行動として顕在化し、完全に実体化します。

それは誰の目にも明らかな「事件」となり、社会的制裁や人間関係の崩壊を招きます。

つまり、『心』で思い、『口』に出し、『体』で実行する。この三段階で罪は成長していきます。

段階が進むほど罪は大きく重くなり、影響範囲も拡大していくのです。

心の中にいらっしゃる神様

神様は罪を犯したら必ず罰を与えられる厳格なお方です。

しかし同時に私たちを深く愛してくださっています。本当は罪を犯してほしくないのです。罪を犯す私たちを悲しんでご覧になっておられます。

罪を犯さないようにする唯一の方法は、心の中に神様にいていただくことしかありません。

心の中に神様がおられ、神様がいつも私たちの心の内をご存知であることを感じ取ってください。

そして、もし罪を犯してしまったら、「神様、どうか罪を犯した私を赦してください。この罪が外に現れませんように。どうか私の心を正してください」と祈りましょう。

神様に心の中に住んでいただき、いつも神様に感謝して、困ったときはいつでも神様を頼って「神様、助けてください」と祈ってください。

人間社会では、何でも頼んでくる人は「自立心がない、甘えている、自己責任だ」と思われますが、神様は違います。

神様は、神様を頼ってくる私たち人間に手を差し伸べ、助けてくださいます。

人生に悩んだとき、神様は知恵を授けてくださいます。この厳しい人間社会の中、どう生きていくべきか道を示して導いてくださいます。

飢えているとき、神様は、誰かの手を通して私たちに助けを与えてくださいます。神様に頼って生きていると、神様や聖霊様の働きによって、誰かが私たちに食べ物を分け与えてくださいます。

住むところがないとき、神様は私たちを住まわせてくださいます。不思議な力と縁で私たちを助けてくださり、日々の生活を神様と共に歩むことができます。

あなたが悩んでいるとき、神様は助け手を送ってくださいます。あなた一人ではできない困難なことも、神様の送ってくださった助け手によって、あなたの悩みを解決することができます。

日之影キリスト教会の歩み

この日之影キリスト教会はいつもギリギリで運営していますが、困ったときには必ずどこからか、私たちを気にかけてくださる他教会の方々から献金が送られ、奇跡的に存続し続けるということを、もう17年も続けています。

自転車操業といっても差し支えありませんね(笑)

母であるマコト主任牧師も年を重ね、いつも神様に「神様、どうか私たちに助け手を送ってください」と祈っていました。次にこの教会を守る牧師が必要でした。

そんな中、私は大阪で仕事を失い、やむなくこの日之影へ移住してきました。

理由は経済的なもので、当時の私は、自分が教会のために来たとは思っていませんでした。

しかし今、こうしてマコト牧師の跡を継ぎ、メッセージの奉仕をさせていただいているとき、あれは神様のご計画だったのだと、心から確信しています。

神様は、マコト牧師の祈りに応えて、私をここに遣わしてくださったのです。

みなさん、どうか神様に祈り、神様にお願いをして、神様を頼ってください。神様は全知全能でできないことはありません。

必ずあなたを助けてくださいます。

最後に、もう一か所聖書を読んで終わりたいと思います。

ヘブル人への手紙13章5~6節

5. 金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。
6. だから、わたしたちは、はばからずに言おう。「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」

お祈りいたします。