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出エジプト記20章「今を生きるあなたへ」

あなたは姦淫してはならない

出エジプト記20章14節

14. あなたは姦淫してはならない。

この第七の戒めについてお話しします。

「姦淫してはならない」という戒めは、ヘブライ語で「ロー・ティンアーフ(לֹא תִנְאָף)」と書かれています。この言葉は旧約聖書全体を通して、一貫して「結婚の契約を破ること」を指しています。具体的には:

  • 既婚者が配偶者以外の者と性的関係を持つこと
  • 結婚という聖なる契約への違反

ここで重要なのは、この戒めが単なる「性的な罪全般」を禁じているのではなく、「契約の破棄」という特定の罪を指している点です。

では、婚姻関係にない者にとっては無関係な戒めなのでしょうか?

実は、旧約聖書では別の言葉を使って区別しています。ヘブライ語で「ザナー(זָנָה)」という言葉があり、これは淫行、売春、未婚者の性的不品行を表しています。

つまり、第七戒の直接的な適用範囲は「婚姻契約の保護」です。1

しかし、より広い文脈で見ると、未婚者の性的純潔も聖書全体で求められています:

  • 結婚前 → 純潔を守る(神様が用意してくださる結婚への備え)
  • 結婚後 → 誠実さを守る(配偶者への契約を守る)

したがって、この戒めは、未婚であるか既婚であるかに関わらず、すべての人に適用されるものなのです。

なぜ神様はこの戒めを与えられたのか

なぜ神様は、この戒めを私たちに与えられたのでしょうか。

それは、神様ご自身が契約を重んじられる方だからです。神様とイスラエルの関係も「契約」によって表現されています。預言者ホセアは、イスラエルの不従順を「姦淫」という言葉で表現しました。つまり、地上における結婚は、神と人との関係を映し出す鏡なのです。

エペソ人への手紙5章25-32節では、キリストと教会の関係が夫婦の関係にたとえられています。ですから、姦淫は単なる道徳的な違反ではなく、神様との契約関係の本質そのものへの攻撃なのです。

レビ記20章10~21節

10. 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。
11. その父の妻と寝る者は、その父をはずかしめる者である。彼らはふたりとも必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。
12. 子の妻と寝る者は、ふたり共必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをしたので、その血は彼らに帰するであろう。
13. 女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。
14. 女をその母と一緒にめとるならば、これは悪事であって、彼も、女たちも火に焼かれなければならない。このような悪事をあなたがたのうちになくするためである。
15. 男がもし、獣と寝るならば彼は必ず殺されなければならない。
16. 女がもし、獣に近づいて、これと寝るならば、あなたは、その女と獣とを殺されなければならない。彼らは必ず殺さるべきである。その血は彼らに帰するであろう。
17. 人がもし、その姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘に近づいて、その姉妹のはだを見、女はその兄弟のはだを見るならば、これは恥ずべき事である。彼らは、その民の人々の目の前で、断たれなければならない。彼は、その姉妹を犯したのであるから、その罪を負わなければならない。
18. 人がもし、月のさわりのある女と寝て、そのはだを現すならば、男は女の源を現し、女は自分の血の源を現したのであるから、ふたり共にその民のうちから断たれなければならない。
19. あなたの母の姉妹、またはあなたの父の姉妹を犯してはならない。これは、自分の肉親の者を犯すことであるから、彼らはその罪を負わなければならない。
20. 人がもし、そのおばと寝るならば、これはおじをはずかしめることであるから、彼らはその罪を負い、子なくして死ぬであろう。
21. 人がもし、その兄弟の妻を取るならば、これは汚らわしいことである。彼はその兄弟をはずかしめたのであるから、彼らは子なき者となるであろう。

レビ記20章10節から21節には、姦淫、近親相姦、同性間の性行為、獣姦など、第七戒に関連する様々な違反行為とその刑罰が詳細に記されています。是非、後で読み返してみてください。

また、申命記の22章には、未婚者の性的関係についても詳しい規定があります。こちらも同様に後で是非お読みください。

レビ記20章の中で「これと寝るならば」という事が書いてありますが、かわいいネコチャンと一緒にお布団に入っておねんねするという意味ではありません。ヘブライ語では「シャーカブ(שָׁכַב)」と書かれ、これは性的関係を現すものです

当然「女と寝るように男と寝る者は」の箇所も文脈上、男性同士が寝る事をさしてるでしょう、これも性的関係を禁じたものであり、兄弟同士がなかよく一緒のお布団でおねんねすることや、フェリーの雑魚寝スペースでいっしょくたになって寝るのは問題ありません

また、「はだを現すならば」という箇所も、夏場に半そでになってはいけない。ということではなく、これもヘブライ語で「エルワー(עֶרְוָה)」と表し、裸や恥ずかしい部分を意味しています

最後に、「その血は彼らに帰するであろう」という表現が度々でてきます。これはヘブライ語で「ダーマーム バーム(דָּמֵיהֶם בָּם)」と書かれ、直訳すると「彼らの血は彼らの中に/彼らの上に」という意味になります。

この言葉の意味は、「その血は彼らに帰する」=「その死の責任は彼ら自身にある」であり、つまり、責任の所在は戒めを破った彼らにあり、処刑を行った共同体の責任ではないと明確に宣言しているものになります。

情欲の目で見る

マタイによる福音書5章27~28節

27. 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
28. しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

新約聖書でイエス様は、姦淫を実際にしなくても、情欲の目で女の人を見る事も姦淫と同じだとおっしゃいました、これには「他人の妻を欲しがること」(契約の侵害への意図)も含まれています

現代のわたしたち

さて、これらの話を聞いてみなさんどう思われたでしょうか?

「大変だ!!わたしたち全員石打ちの刑で殺されちゃうよ!!」

「あまりにも厳しすぎる、これじゃやってられない」

「時代は変わったんだよ、古臭いルールなんて捨てちまえばいい」

「誰にも迷惑かけてなければアニメや漫画を楽しむのはいいんじゃないの?たかが絵だよ?」

多分、こういう気持ちになると思います。なにしろセクシャルな気持ちで相手を見る事も姦淫なのですから。

そうなるともう、『みんなで仲良く地獄行きコースだね(´ω`)』──そんな冗談を言いたくなるかもしれません。

律法の本来の目的

ガラテヤ人への手紙3章24節

24. このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育係となったのである。

ローマ人への手紙3章20節

20. なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

では、律法は一体何のために与えられたのでしょうか。

パウロはガラテヤ人への手紙の中で、律法を「養育係」と呼んでいます。ギリシア語では「パイダゴーゴス(παιδαγωγός)」という言葉が使われています。

当時のギリシア・ローマ社会における養育係とは、主人の子どもを学校へ連れて行き、その途中で守り、導く責任を持つ奴隷のことでした。養育係の役割は次のようなものでした:

  • 子どもを守る — 危険から保護する
  • 規律を教える — 正しい道を歩むように訓練する
  • 最終目的地へ導く — 子どもを教師のもとへ確実に届ける

養育係自身が教師ではありません。しかし、子どもが教師のもとにたどり着くまで、なくてはならない存在だったのです。

パウロは、律法もこれと同じ役割を果たしていると言います。

律法の三つの役割

第一に、律法は「罪を映し出す鏡」です。

私たちは律法を見ることで、「ああ、私は神様の基準に全く達していない」と気づかされます。ローマ人への手紙3章20節にあるように、「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」なのです。鏡は汚れを見せてくれますが、その汚れを取り除くことはできません。

第二に、律法は「自力救済の不可能性」を示します。

どんなに真面目に、どんなに熱心に頑張っても、私たちは律法を完全に守ることができません。この現実に直面することで、私たちは悟ります—「自分の義では救われない。神様の恵みが必要だ」と。

第三に、そして最も重要なことですが、律法は「キリストへと導く」のです。

養育係が子どもを教師のもとへ連れて行くように、律法は私たちをキリストのもとへ導きます。律法の最終目的地は、キリストご自身なのです。律法は私たちに語りかけます—「あなたには救い主が必要だ」と。

律法は絶望させるためではない

いかがでしょうか。

レビ記20章の厳しい規定も、マタイによる福音書5章でイエス様が語られた「情欲をいだいて見ることも姦淫」という教えも、私たちを打ちのめして絶望させるために与えられたのではありません。

むしろその逆です。

これらの戒めは、私たちに気づかせるためにあるのです—「自分の力では無理だ。神様の恵みが必要だ」と。そして、その気づきが、私たちをキリストのもとへ導くのです。

聖書はこう宣言しています:

「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)

これは厳しい言葉に聞こえるかもしれません。しかし、この真理を受け入れることこそが、救いへの第一歩なのです。

私たちは生まれながらにして罪人です。どんなに努力しても、自分の力では神様の前に義とされることはできません。神様の恵みなしには、誰一人として救いにたどり着くことはできないのです。

しかし—希望があります。

福音への橋渡し

ローマ人への手紙6章23節

23. 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

十戒に刻まれた戒めは、どれも完全に守ることが非常に難しいものです。

私たちはこれらの戒めを読むとき、自分の罪を明確に自覚させられます。そして、心の中でこう叫ぶのではないでしょうか—「私はなんてダメな人間なんだろう。神様の定められた通り、私は死ななければならない存在なのか…」と。

絶望的な気持ちになるかもしれません。

しかし、ここで立ち止まって、もう一度考えてみてください。

十戒は、私たちを罰するために与えられたのではありません。

十戒の真の目的は、私たちに罪を自覚させることによって、「神様の恵みが必要だ」という真理に気づかせ、そして救いの道へと導くことにあるのです。十戒は、私たちを裁くための槌ではなく、キリストへと導く道しるべなのです。

イエス様—完全な犠牲

そして、私たちのすべての罪を背負い、身代わりとなって犠牲になってくださった方がいます。

それが、イエス・キリストです。

旧約時代、人々は罪を犯すとヤギや羊を神様に捧げなければなりませんでした。これらの動物の血によって、一時的に罪が贖われたのです。

しかし、動物の犠牲には限界がありました。

第一に、それは繰り返しが必要でした。 一度捧げても、また罪を犯せば、再び犠牲を捧げなければなりませんでした。ヘブル人への手紙10章1節には、「律法はきたるべき良いことの影」であって、「年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによっては、みまえに近づいて来る者たちを完全にすることはできない」と記されています。

第二に、それは完全な贖いではありませんでした。 動物の血は、来るべき完全な犠牲を指し示す「しるし」に過ぎなかったのです。

しかし、イエス様は違いました。

イエス様は、罪のない完全な神の小羊として、この世に来てくださいました。そして、生ける聖なる供え物として、十字架にかかってくださったのです。

イエス様ご自身が完全に聖なる方であったがゆえに、ただ一度の犠牲で、すべての人の罪を永遠に贖うことができました。

ヘブル人への手紙10章10節は、こう語っています:

「この御旨に従い、ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである」

罪の代価と神の賜物

ローマ人への手紙6章23節は、二つの対照的な真理を示しています:

「罪の支払う報酬は死である」

これが、私たちが本来受けるべき結末です。罪の代価は死—神様からの永遠の分離です。

「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」

「しかし」—なんと美しい言葉でしょうか。

私たちが受けるべき死の代わりに、神様は賜物を用意してくださいました。それは、イエス・キリストにある永遠のいのちです。

これは私たちが努力して勝ち取るものではありません。稼ぎ取るものでもありません。

これは賜物—無償の恵み、一方的な愛の贈り物なのです。

イエス様の十字架によって、あなたの罪はすべて赦されました。

イエス様の復活によって、あなたには新しいいのちが与えられています。

この恵みを、ただ信じて受け取るだけでよいのです。

今を生きるあなたへ

さて、ここまで十戒の第七戒について、聖書の教えを見てきました。

律法の厳しさ、そしてイエス様の十字架による恵み—この二つを学んだ今、私たちは問います。

では、今を生きる私たちは、どのように歩んでいけば良いのでしょうか?

若いあなたへ

漫画やアニメは好きですか? グラビアやアイドルはどうでしょうか?

若いうちは、青春の真っ只中を生きています。気になるあの子にアタックしたり、「あの子もいいな、この子もいいな」と心が揺れ動いたり。そういう感情も、青春の一部です。

秋葉原や日本橋に出かけて、ビルの壁いっぱいに描かれたカワイイキャラクターを見て胸をときめかせ、仲間たちと夜通し好きな作品について語り合う—そういう時間も、人生の中で大切なひとときです。

でも、もし誰かを本当に好きになったなら、少し立ち止まって考えてみてください。

その気持ちは、「自分のものにしたい」という所有欲から来ているのでしょうか?

それとも、「この人と人生を共に歩んでいきたい」という献身的な愛でしょうか?

正直に言いましょう。情欲的な気持ちから始まる恋愛もあります。それは否定できない現実です。

でも、相手の心に本当に触れたとき、あなたの考え方が変わることもあるのです。相手を「モノ」ではなく「かけがえのない人格を持った存在」として見るようになる—そんな成長が起こることもあります。

神様が第七戒を通して守ろうとしておられるのは、まさにこの「人格の尊厳」であり、「契約による結びつき」なのです。

既婚のあなたへ

そして、すでに結婚しておられる方々へ。

結婚生活には、さまざまな試練があります。すれ違い、誤解、倦怠期—そういった中で、外に目が向いてしまう誘惑もあるかもしれません。

しかし、思い出してください。

あなたが配偶者と交わした誓いは、ただの約束ではありません。それは神様の前で交わした聖なる契約です。

神様は、その契約を通して、キリストと教会との愛を映し出そうとしておられます。

困難な時こそ、神様に助けを求めてください。神様は、あなたの結婚を守り、回復させ、祝福してくださる方です。

すべての人へ—完全な人はいない

完璧な人など、この世に一人も存在しません。

日々の生活を律法に照らし合わせてみれば、「自分はなんと罪深いのか」と驚くばかりです。

情欲、妬み、高慢、怒り—数え上げればきりがありません。

でも、だからこそ、私たちには福音が必要なのです。

イエス様は、あなたの弱さをご存じです。

イエス様は、あなたの失敗を知っておられます。

それでもなお、あなたを愛し、あなたのために十字架にかかってくださったのです。

希望を持って歩む

ですから、希望の心を持って、神様に祈ってください。

「神様、私を清めてください」

「神様、正しい道を歩めるように助けてください」

「神様、あなたの愛をもって生きられるように、力を与えてください」

神様は、あなたの祈りに必ず応えてくださいます。なぜなら、神様があなたに望んでおられるのは、あなたが裁かれることではなく、あなたが自由に、喜びをもって、愛に満ちて生きることだからです。

十戒は滅ぼすためではない

最後に、もう一度確認させてください。

神様は、あなたがたを罪に定めて滅ぼすために十戒を与えられたのではありません。

十戒は、あなたを愛するがゆえに与えられた、神様からの贈り物です。

それは、あなたが豊かないのちを生きるための知恵であり、キリストのもとへ導く道しるべなのです。

お祈りいたします。