メッセージ動画

週報(日本語語版)

2024年12月15日ひのかげキリスト教会週報

週報(フランス語版)

2024年12月15日ひのかげキリスト教会週報(仏)

■■■ マタイによる福音書5章「イエス様を心に迎える」 ■■■

● 聖書入門

 いま、この教会に来ている人たちはみんな、イエス様のことをよく知っていると思います。

YouTubeでこのメッセージを聞いている人たちの中にも、イエス様のことを知っている人はたくさんいるでしょう。

教会によく通っている人たちは「イエス様」と親しみを込めて呼んでいますが、世間一般では「イエス・キリスト」という名前で知られていますね。

今日は、イエス様のことをまだ知らない方や、「有名なエピソードなら聞いたことがあるよ」という方に向けて、イエス様のことをお話ししたいと思います。

● イエス様の事をどこで知りましたか?

 さて、みなさんはイエス様のことをどこで知りましたか?
多分、一番有名なのは「クリスマスはイエス様の誕生日をお祝いする日」というイメージではないでしょうか。

また、「十字架にかけられた人」というイメージや、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」という教えを思い浮かべる方も多いかもしれません。

実は、聖書の中では、イエス様が生まれることが4000年から6000年前に既に予言されていました。この予言は、世界の始まりの時、神様がアダムとエバに語られた言葉の中に記されています。

つまり、世界の始まりから、イエス様の誕生は神様の計画の中心だったのです。そのことを思うと、イエス様の存在がどれだけ特別か、改めて感じますね。

● イエス様はなぜ生まれてきたの?

 イエス様は、わたしたちの罪を救うために、この世に生まれてきてくださいました。でも、その方法は驚くほど厳しく、残酷なものでした。

イエス様の人生を知ると、わたしたち人間がどれほど罪深く、愚かな存在なのかを考えずにはいられません。

みなさん、「十字架」という言葉を聞いたことがありますよね?
でも、それが何なのか、本当の意味を知らない方もいるかもしれません。
例えば、ドラキュラの弱点として登場するもの? 赤十字のように平和や医療のシンボル?

そうですね、十字架は多くの場面で使われていますが、イエス様の人生においては、まったく違う意味を持っています。

十字架とは、イエス様がわたしたちの罪を贖うために命を捧げられた場所。
それは、当時の処刑道具として最も残酷で、屈辱的な刑罰の象徴でした。
イエス様は、わたしたちが本来受けるべき罰を、自分の身に引き受けるために、この世に来てくださったのです。

● イエス様は何故十字架に掛けられたの?

 イエス様がお生まれになる前、神様は人間に直接語りかけ、さまざまな教えや掟を与えておられました。その時代、もし人が罪を犯した場合、罪を贖うためには生贄を捧げる必要がありました。


【レビ記4章27-31節】

  1. また一般の人がもしあやまって罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをして、とがを得、
  2. その犯した罪を知るようになったときは、その犯した罪のために供え物として雌やぎの全きものを連れてきて、
  3. その罪祭の頭に手を置き、燔祭をほふる場所で、その罪祭をほふらなければならない。
  4. そして祭司は指でその血を取り、燔祭の祭壇の角にこれを塗り、残りの血をことごとく祭壇のもとに注がなければならない。
  5. またそのすべての脂肪は酬恩祭の犠牲から脂肪を取るのと同じように取り、これを祭壇の上で焼いて主にささげる香ばしい香りとしなければならない。こうして祭司が彼のためにあがないをするならば、彼は許されるであろう。

当時、人々は罪を贖うために、牛やヤギ、羊などを神様に捧げていました。それが「罪の代わりとなる生贄」としての役割を果たしていたのです。

でも、この方法には大きな問題がありました。それは、人間が何度も罪を犯す存在であること、そして動物の血では罪を完全に取り除けないことです。

【動物の犠牲の限界】


【ヘブル人への手紙10章1ー4節(要約)】

イエス様がお生まれになる前の聖書の掟やルールは、これから与えられる素晴らしいこと(救い)の「影」にすぎず、完全な解決策ではありません。そのため、動物のいけにえを毎年捧げても、人の罪を完全に取り除くことはできません。もしそれができたなら、何度もいけにえを捧げる必要はなかったはずです。

でも実際には、いけにえを捧げるたびに、自分たちの罪が思い出されるだけでした。なぜなら、動物の血では人間の罪を完全に消し去ることはできないからです。

むしろ、いけにえを捧げるたびに、自分たちが罪人であることを思い出すばかりでした。そして、動物の犠牲を捧げられるのは、財力のある裕福な人たちに限られていました。

すべての人が罪を赦されるためには、完全で永遠の解決が必要だったのです。

【イエス様の使命】

その解決のために、神様はイエス様を送ってくださいました。

イエス様は、動物のいけにえではできなかったこと――人間の罪を完全に取り除く贖い主として、この世に生まれてくださいました。

イエス様の十字架の犠牲は一度きりの完全な贖いでした。そのおかげで、わたしたちはもう何度もいけにえを捧げる必要がありません。
イエス様の血によって、わたしたちの罪は完全に赦され、神様とつながる道が開かれたのです。

【信じるとは】

「信じる」というのは、ただ「イエス様が十字架に掛かってくれたおかげで、わたしたちの罪は赦されているんだよね、ありがとう」と知識として知っているだけではありません。

それはもっと深いものです。「本来なら赦されるはずのないわたしが、イエス様によって赦された」ということを、心の底から感謝し、イエス様の愛と赦しを受け入れることなのです。

だから、「わたしの罪のために十字架に掛けられたこと、ごめんなさい。そして、その愛と赦しを信じます」という感謝の思いを持って信じることが、とても大切なのです。

● クリスマス

クリスマスは、イエス様の誕生日をお祝いするための日ですが、実は、イエス様がこの日にお生まれになったという確かな記録があるわけではありません。

聖書には、イエス様がお生まれになった時期について明確な日付が記されていないため、正確な誕生日は分かっていないのです。それでも、12月25日は長い歴史の中で、イエス様のご誕生を記念し、喜びを分かち合う特別な日として定められました。

当時の教会は、ローマの人々が冬至(1年の中で一番太陽の出ている時間が短い日)の頃に祝っていた祭りを、イエス様の誕生をお祝いする機会として用いました。それは「光が闇を照らす」というイエス様のメッセージを象徴するのにふさわしい時期だったからです。

クリスマスはイエス様のお誕生日ではなく、イエス様の誕生を感謝し、礼拝する日です。

● イエス様の教え

 イエス様は、神様がこの世に送ってくださった聖なる犠牲の方です。しかし、神様の御子でありながら、私たちと同じ人間としてこの世に生まれ、さまざまな体験をされました。

イエス様は、飢えや渇き、喜びや悲しみといった、人間らしい感情を知り、わたしたちと同じ弱さを体験されました。それだけでなく、多くの奇跡を行い、神様の愛と力を示してくださいました。

また、イエス様は神様の教えを伝えるために、多くの人々に出会いながら旅を続けられました。その教えの中には、「隣人を愛すること」「敵を赦すこと」など、わたしたちにとって深い意味を持つものがたくさんあります。

【右の頬を打たれたら】

わたしがキリスト教の人だと知るとよく出てくる質問の筆頭がこれです

「右の頬を打たれたら左も出さなあかんのやろ?」

とても有名なところですが、この話の全体を知ってる一般人はあまりいないと思います。

このお話は、イエス様がたくさんの群衆がイエス様のお話を聞くために詰めかけてきた時、群衆たちに語った説教の一部です。

ちょっと長いですが、読んでみましょう。


【マタイによる福音書5章】

(ここで5章全体を読み上げる)

どうでしょうか、「右の頬を打たれたら左も出しなさい」は最近ニュースや新聞でよくある「切り取り」と同じですね、都合の良い解釈のできる部分だけ知られて広まった部分で、本来はとてもとても深い意味のあるものです。

当時の文化では右手で右の頬を打つというのは平手ではなく裏打ちであり、相手をとても侮辱し、屈辱を与えるというものでした。

「右を打たれたら左も」という言葉は単純に暴力への対応ではなく、侮辱や不正に対する態度の事を指しており、単純な非暴力の教えではありません。

これは相手に仕返しをするのではなく、報復の連鎖を断ち切り、報復ではなく愛と寛容で返しなさい。

単に弱さや屈辱に甘んじるということではなく、自らの尊厳を保ちながら相手の悪に対して愛で応じる事を求められています。

「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」という教えは、イエス様が人間関係において復讐ではなく赦しを選ぶことの重要性を教えています。それは、自らの尊厳を守りつつ、神様の愛と赦しを相手に示す新しい生き方を意味します。この教えを実践することは難しいかもしれませんが、私たちを真の平和に導く鍵となります。

この教えはとてもとても深い意味も含まれています。イエス様は『右の頬を打たれたら左も向けなさい』と言われましたが、実際にイエス様ご自身が十字架の上で、人間の悪意と罪をすべて受け止め、赦しの愛で応えられました。

● イエス様の人生

 イエス様は人間の世で生きておられる間、様々な奇跡やお話をされました。先ほどの「右の頬」の話はほんの一部で、まだまだ話足りないところがたくさんあります。来週はクリスマス礼拝でまたイエス様のお話が聞けると思います。今日のこのお話でイエス様の事が少しわかった、興味が出てきた、もっと知りたい。そう思われたらまた是非、日之影キリスト教会へお越しください。宮崎県日之影町にお住まいでなければ、お近くのキリスト教の教会を探し、是非、足を運んでみてください。Youtube で今このメッセージを聞かれていたら、是非また来週も Youtube のメッセージを聞きにきてください。そして、日之影キリスト教会 Youtube チャンネルにチャンネル登録もよろしくお願いいたします。

わたしたちはとても罪深い存在です。罪を犯さず正しく生きていこうと姿勢を正しても目を閉じると「あぁ、あのときはなんて酷い事を言ってしまったんだ」「あの時はわたしの行動は間違っていた」「何故あのときあの人にああしてあげなかったのか」様々な罪が思い出されてきます。イエス様が聖なる犠牲になったから、もうこれからはいくら罪を犯しても許されるんだ。そんなことはありません。わたしたちは常に神様の教えを心にとめ、愛と寛容をもって生きていく訓練をしながら強い忍耐の心をも身に着けていかなければなりません。

神様はとてもわたしたちを愛してくださっていますが、とても厳しいお方でもあります。しかしとても寛容でもあり、わたしたちの悔い改めを神様自らが忍耐強く待ち続けてくださっています。わたしたちはその事を覚えて、日々姿勢を正して、神様に喜ばれる存在として生きていきたい。そうなれるよう、自分自身をそう造り変えていただけるようお祈りをして過ごしていきたいと思います。

じゃ、具体的にどうすればいいの?

今日からできることとして、まず家族や周囲の人に感謝の言葉を伝える、誰かのために祈る、聖書の一節を読み神様に心を向ける――そんな小さなことから始めてみるのも良いと思います。毎日続けていると、自分自身の心の中が何か造りかえられる、そんな素敵な体験が得られるかもしれませんよ。