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出エジプト記13章「神の裁きの前の恵みの時」

過越しの奇跡

ヤコブの息子ヨセフは、神様のお導きによってエジプト周辺諸国を7年間の大飢饉から救いました。当時のエジプトの王パロはヨセフには正しい神様が一緒におられる事を認め、彼を宰相として用いました。そして、ヨセフは父ヤコブとその一族をエジプトへ呼び、その事からイスラエルの民はエジプトのゴセンの地に定住するようになりました。

ゴセンの地は家畜の放牧に適した土地であり、エジプト人とは社会的に分離された場所でもあったため、エジプト人の偶像礼拝に染まりにくかったため、エジプトでの定住の地として選ばれました。

それから400年、新しい世代のパロはエジプトを救ったヨセフの事を知らず、人口が増え発展していくイスラエルの民を脅威に思ったため、奴隷としてこきつかう事でイスラエルの民たちの力を削ごうとしました。

神様は虐げられるイスラエルの民たちの苦しみの声を聞き、レビ族のモーセに神様の権威を与え、その兄アロンをモーセの予言者として立て、エジプトからイスラエルの民たちを救い出す使命をお命じになりました。

エジプトの支配者パロは非常に頑なな心をもち、モーセを通じて示される神様の奇跡を目の当たりにしてもイスラエル人を開放しませんでした。
そして神様は9つのわざわいでエジプトを打ち、そして最後にエジプト中の全ての初子、つまり最初に生まれたものを人間、獣関係なく全て打たれました。

神様はこの最後のさばきのとき、イスラエル人が打たれないように、過越しの取り決めを命じられました。

この神様の過越しは今もユダヤ人の信仰の中心的な出来事として記念され、毎年春に『ペサハ(過越しの祭り)』として守られています。

すべての初子はわたしのものである

イスラエル人たちがエジプトから解放されたあと、神様はモーセに言われました。

「イスラエルの人々のうちで、すべてのういご、すなわちすべて初めに生まれたものを、人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。それはわたしのものである」

この「聖別」、「聖書の聖」に「別物の別」と書いて「聖別(せいべつ)」と呼びますが、これは「神様のために取り分ける」「神聖なものとして区別する」という意味があります。

「聖別」とは、すなわち「神様に仕えさせる」という意味なのでしょうか。ではなぜ、初子だけが特別に求められたのでしょうか?もし神様に仕えることが重要であれば、すべての子どもが仕えるよう命じられてもよかったのでは…そう感じるかもしれません。

これは、神様の意図としては単なる「義務」として決められたのではなくイスラエルの人々をエジプトから救うためにエジプトの全ての初子を打たれたことの「記憶と感謝の継承」でした。

すべての「ういご」は神様のものです。

ろば等の清くないとされる獣の初子は神様に捧げることはできないので、代わりに子羊を全焼、つまり完全に焼き尽くす生贄として贖わなければいけません。

清いとされる子羊は子羊を完全に焼き尽くす全焼のささげものとして捧げなければなりません。

もちろん、男の子のういごも神様のものなのですが、人間を全焼の捧げものとして生贄にすることは神様ご自身が禁じられているため、代わりに銀を支払う事で贖うことになっています。

「贖う」とは、本来ならば神様に直接ささげなければならない命を、代価を支払うことによって“取り戻す”、いわば“買い戻す”行為です。これにより、その命は神様のものとしてのしるしを残しつつ、実際には家庭にとどめて用いることが許されるのです。

神様が人を生贄にすることを禁じている箇所は聖書にも明確に記されています。

1.レビ記18章21節 『あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名をけがしてはならない。わたしは主である。』モレクとは異教の偶像です。ささげるということは、焼き殺してささげることを示しています。

2.申命記12章31節 『あなたの神、主に対しては、そのようにしてはならない。彼らは主の憎まれるもろもろの忌むべき事をその神々にむかって行い、むすこ、娘をさえ火に焼いて、神々にささえたからである。』

3.申命記18章10節 『あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてっさげる者があってはならない』

神様はかつて、アブラハムにイサクを生贄として捧げなさいとお命じになられましたが、これはアブラハムに対する信仰の試練であり、最終的にはイサクの命をとりませんでした。そして代わりの雄羊が供えられ、これが贖いの原型となりました。

神様は実際に人の命そのものを捧げられることではなく、従順の心をもって神様に仕える事を求めておられます。

神様が「初子をわたしのものとせよ」と言われたのは、わたしたちが救われたことを忘れないためでした。

それは“奪う”ためではなく、“守られた命”を神様とともに覚え、感謝して生きるための教えでした。

エジプトから出るこの日を覚えなさい

エジプトを出るその日、モーセは民にこう語りかけました。

「あなたがたは、エジプトから、奴隷の家から出るこの日を 覚えなさい。主が強い手をもって、あなたがたをここから導き出されるからである。種を入れたパンを食べてはならない。あなたがたはアビブの月のこの日に出るのである」

アビブの月というのは、神様がエジプトに最後のわざわいを行うまえにモーセたちに「この日を記念として最初の月、正月としなさい」とした月になります。時期的には今の日本における3月中旬から4月上旬にかけての、春の若い穂が出始める頃――つまり、収穫の始まりの時期だと覚えておいてください。

そして、神様は、過越しの出来事を覚えるため、次の掟をイスラエルに与えました

・ 七日の間、種を入れぬパン(種なしパン)を食べること

・ 種を入れたパンを家の中に置いてはならない

・ パン種(発酵のもと)も、すべて取り除くこと

パン種とは、パンを膨らませるイースト菌のようなものです。

これは単なる食習慣の話ではありません。パン種は、罪や悪を象徴するものとして表されており、

「わたしたちは、古い罪を取り除いて、純粋で真実な生き方をする者になりなさい」

という霊的な意味が込められています。

ここは前回もお話させていただきました

コリント人への第一の手紙5章6節

『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたあ、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。

しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パンだねのない者なのだから。

たしたちの過越しの子羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪のパン種を用いずにパン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』

わたしたちの心の中の古いパン種は取り除かれているでしょうか、わたしたちは新しい人となって悪い心を捨てないといけません。

荒野への道

ついに、イスラエルの民たちはエジプトを出て、神様が約束されたカナンの地を目指して旅立ちます。ここで聖書を読んでみましょう。

出エジプト記13章17節 『さて、パロが民を去らせた時、ペリシテびとの国の道は近かったが、神は彼らをそれに導かれなかった。民が戦いをみれば悔いてエジプトに帰るであろうと、神は思われたからである。神は紅海に沿う荒野の道に、民を回らされた』

神様がイスラエルのひとたちに与えるカナンの地というのは、ペリシテびとがいる国を通るのが近道でしたが、当時のペリシテ人は、沿岸に要塞化された都市国家を築き、軍事的にも強力でした。エジプトともしばしば紛争をしていたような相手で、通行する部族や民を容易に攻撃するような“好戦的な民族”として聖書に描かれています。

神様は、長いあいだ奴隷として虐げられ、ようやく解放されたイスラエルの民たちには荷が重いであろうと考えられました。当然、ペリシテびとが襲ってきたら神様なら守ってあげられるのでしょうが、気性の激しい彼らとの闘いで心が折れて「エジプトへ帰る」と言い出しかねないと思ったんですね。

そこで、神様はイスラエル人たちを訓練し、つよい民になるよう、遠回りの荒野を進む道へ進まされました。

この神様が「彼らはエジプトに帰った方がマシと思うに違いない」という懸念はこのあと実際におこってしまうんですね。

民数記13章から14章、長いので要約します

モーセはカナンの地に入るまえに、ヤコブの12部族の中から代表者を選んでカナンの地を偵察させました。

・ 良い土地か、悪い土地か

・ 土地に住むものたちは強いのか弱いのか

・ 建物はテントなのか、堅固な町なのか

そして実際にカナンの地を偵察すると、とても良い土地でブドウは1房で大人の男性2人でかつがなければならない程の大きい実が鳴っているほどでした。

しかし、そこに住む人たちはとても体が大きく、とても強く、そして規模の大きい町で簡単に攻めることはできないであろうと思われました。

そしてカナンの地に入る事はとても無理だと思った人々はこう言いました「こんなことならエジプトで一生を終えたほうがマシだった、さぁ、エジプトへ帰ろう!!」

神様はたくさんの奇跡で導き、訓練したにもかかわらず、神様を信じずに「エジプトへ帰ろう」といった人たちに落胆され滅ぼされようとしましたが、モーセのとりなしで許され、神様をあなどった中心となった人たちを罰するだけで終わりにしてくださいました。

しかし、すべてのスパイが否定的だったわけではありません。ヨシュアとカレブは「主が共におられるなら、必ずこの地を得られる」と信仰をもって語りました。

神様はわたしたちを困難な道のりで導かれますが、それは、わたしたちを訓練し、この先の人生で神様を信じ、そして神様に従って生きていけるように、そうされるんですね。

イスラエルの民はこのあと何度も神様を侮り、不平不満をいい、そのたび神様は「何故この民たちはわたしを侮るのか」と落胆されます。神様はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を守るためにイスラエル人たちを導いてくださいましたが、神様ご自身も、きっと大きな悲しみと忍耐をもって彼らを導かれていたのではないでしょうか。

わたしたちは神様を知らないうちに侮ってはいないでしょうか、忍耐の心でわたしたちを導いてくださる神様に目をむけ、日々、心を新しくして生活していければと思います。

わたしたちは“近道”ではなく、“信仰の旅”へと招かれている。そう思うと、遠回りのように見える毎日も、神様の御手の中にあることに感謝したくなりますね。

約束の地と神様の信仰への道のり

こうして彼ら、イスラエルの民の神様の約束された乳と蜜の流れる地への長い長い旅がはじまりました。

乳と蜜が流れる地、単なるおいしい場所じゃなくて、
神様が“目を注ぎ、心を注ぎ、祝福をそそぐ場所”なんです。
今もその地は、奇跡のように豊かな実りに恵まれています。

モーセはヨセフの遺骸も一緒に携えてエジプトを出ました。

ヨセフはいずれエジプトからイスラエルの民たちが神様の約束された地へ向かう事を知っていました。

創世記15章13-14節 『時に主はアブラハムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」』

きっと、ヨセフは代々神様の言葉が伝承として残ってたのかもしれませんね、もうアブラハムの時代から出エジプトの事は神様から予言されていました。

さいごの「アモリびとの悪がまだ満ちない」という部分、これはどういう意味でしょうか。

これは、カナンに住んでいるアモリびとは罪びとでしたが、まだ神様にとっては裁くレベルの罪ではない、まだまだ神様は忍耐をもってアモリびとの悔い改めをまっていました。

神様は約束の地をアブラハム、イサク、ヤコブの子孫に与えると約束され、そしてカナンに攻め入って彼らから土地を奪い取らせます。しかし、アモリびとたちが邪魔ものだからということではありませんでした。

神様は罪びとであってもわたしたち人間を愛してくださっています。そして、忍耐をもって悔い改め、そして神様に目をむけてしたがってくれるのをずっとまっていてくださっているのです。

神様は何百年も、時には1000年以上も先を見据えて計画されておられます。

その時間は神様視点でただ長いというわけではありません。その時間は神様がわたしたちに与えられた裁きの猶予期間でもあります。

わたしたちは神様を侮ってはいないでしょうか?わたしは大丈夫だと安心してしまってはいないでしょうか?

サタンはわたしたちの心の中に巧みに入り込み、そして誘惑します。

神様を侮り、そして40年ものあいだ荒野で試練にあったイスラエルは現代のわたしたちの姿でもあります。

主の祈りにも「わたしたちを試みにあわせず、わたしたちを罪より救い出してください」とあります。

サタンの誘惑に打ち勝って神様の裁きを免れるために、そして神様に過越ししてもらえるよう日々神様に祈りながら生きていきたいとおもいます。

お祈りいたします。