第1テサロニケ4章では、弱い者、気ままな者、小心な者に対する教えと励ましが記されています。パウロは、クリスチャンはすでにその歩み方について教えられており、実際に歩み初めているのだから、ますますそのように歩めと励まし、気ままな者たちには「仕事に身を入れよ。」と戒め、愛する者を失って気落ちしている人達には「主が再び来られるとき、キリストにあって眠っている者たちも、彼らも私たちもともに主のみ許に引き上げられ、いつまでも主とともにいることになるのだ。」と励まします。
テサロニケの教会は苦難の中で主に歩んだすばらしい教会でしたが、その中に問題がなかったわけではありません。そこには5-14で言及されているような三種類の問題児たちがいました。一つは気ままな者。「もうすぐ主がこられるのだから、この世の仕事など意味がない。」と云って仕事もせずに信者の家々をめぐり歩いて無駄なおしゃべりにふけっている人々。第二は小心な者、愛する者に先立たれ、悲しみにとらえられて沈みこんでいる人たち。そして第三は、情欲に溺れ、いろいろ不義理を重ね、兄弟たちを踏みつけにしていた弱い人たちです。
そんな人々にたいしてパウロは、まず「あなたがたは、どのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」と励まし勧めます。どんなに未熟で弱いクリスチャンでも、大切なことはすでに教えられており、大なり小なりその方向に歩みだしていることを認め、それを励ますのがパウロのやり方でした。同じことが兄弟愛を励ます10節にも見られます。
それから、弱いものには、神は聖潔を得させるために私たちを召されたのだということを思い起こさせて、聖い生活を送るよう命じます。そして気ままな者に対しては「外の人々にもりっぱにふるまう」、つまり証しのために「落ち着いた生活を志し、自分の仕事に身を入れよ。」と戒めます。また先に眠った者の思い出にとらわれ悲しみに沈みこんでいる人たちには、「主が再び来られるとき、キリストにあって眠っている者がまず引き上げられ、私たちも主のみ許に上げられ、いつまでもいっしょに主とともにいることになるのだ。」と語って希望と励ましを与えます。私たちは、自分は弱い者、気ままな者、また小心な者であることを認めて、御言をもって互いに慰めあい励ましあって進みましょう。