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出エジプト記33章「神様の友」

モーセの執り成し

モーセは神様からの導きでイスラエルの民をエジプトの地から、シナイ山へと進み、そこで神様から十戒を授けられましたが、イスラエルの民達は神様を裏切り、金の子牛を造ってこれを拝んだため、3千人が打たれました。

神様はモーセに約束の地へと彼らを導きなさい、わたしはあなたがたを滅ぼしてしまうから一緒に行かないとおっしゃったため、民たちは非常に悲しみました。

モーセは神様に必死に執り成しをし、どうかわたしたちと一緒に約束の地まで登ってくださいとお願いし、そして神様はその通りにしましょうと受け入れてくださいました。

神様の栄光

モーセは神様に「どうぞ、あなたの栄光(ヘブライ語でカボード)をわたしにお示しください」とお願いしました。モーセは「栄光」と言いましたが、神様のお顔を見たいと思っていたのかもしれません。神様はそのニュアンスを感じ取り、「わたしの顔を見ると死んでしまうから、見せてあげる事はできないよ」と、そっと釘を刺されました。

そして

「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」

と仰いました。

「善」はヘブル語で טוּב(トーブ)、これは美しさ・豊かさ・輝き・良いものすべてを指します。「神様が持っておられるすべての素晴らしさをパレードのようにあなたの前に通してあげる」というイメージです。

「主の名をあなたの前にのべる」とは、名前を「説明する」「宣言する」という意味です。古代では名前=その存在の本質そのものですから、「わたしが何者かをあなたに語って聞かせてあげる」ということです。(34章2節以降に繋がります)

さて、現代訳ではニュアンスがかなり現代に寄せて翻訳されています。12節でモーセのセリフが口語訳では「あなたはかつて『わたしはお前を選んだ』と仰せられました」となっていますが、現代訳では「あなたは前に、私の事を、『わたしが選んだ友』であるとも仰せられました」となっています。

神様はモーセの事を友と呼びました。

古代において名前とは本質や存在そのものを指しますため、「主の名をあなたの前にのべる」とは、「友だから、わたしの本当の姿を見せてあげよう、栄光を見せてあげよう」とおっしゃったと捉える事ができます。

「わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」とは、正確には「恵みを与えるかどうかはわたしが決める、あわれむかどうかもわたしが決める」という意味です。神様の主権宣言です。「恵みは誰かが資格を得るものではなく、わたしが自由に与えるものだ」ということです。

岩の裂け目

神様はモーセに岩の上に立ちなさいと言いました。神様の栄光が通り過ぎる時に、お顔を見なくても済むように、通り過ぎるときだけ岩の隙間にあなたを入れて、わたしの手で覆ってあげる。手をのけた時はあなたはわたしの後ろ姿を見るでしょう。

神様は「顔は見せられないけど後ろ姿は見せてあげる」としてくださいました。これはつまり「わたしの全部は見せられないけど、わたしが通り過ぎた後に残るもの、善の結果・恵みの痕跡は見ていい」という意味にもなります。(34章でモーセが「主の恵みと真実」を見るのがこの「後ろ姿」です)

罪深いわたしたち

神様はモーセの事がとてもお気に入りでした。現代訳では神様がモーセに「あなたは、わたしの心にかなっており、わたしが選んだ友だから、あなたの言う通りにしよう」とまで仰っています。

しかし、わたしたちはモーセのような人物とはとても言えません。罪深く、謙虚さも足りない。神様の「友」と呼ばれるには、あまりにも程遠い存在です。

聖書はわたしたちに、神様に愛された友モーセと、罪深い自分自身との落差を、まざまざと見せてくれます。

では、わたしたちはどうすればよいのでしょうか。

ヨハネによる福音書15~16章(現代訳)

15. わたしは、もうあなたがたをしもべとは思っていません。しもべは主人のしていることを知らないからです。わたしはあなたがたを友だと思っています。天のお父様から聞いたことを全部あなたがたに話したではありませんか。
16. あなたがたは、自分でわたしを選び、わたしを信じたのだと思っているのかもしれませんが、そうではありません。むしろ、わたしがまずあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが出て行って実を結び、その実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名前によって天のお父様に求めるものは何でも、天のお父様が与えてくださるためです。

イエス様は弟子たちに「わたしがあなたたちを選んだのです」と言いました。モーセを最初に選んだのも神様でした。イエス様は天のお父様から聞いたことをすべて弟子たちに伝え、「あなたがたはもはや僕ではなく、友です」とおっしゃいました。

先ほど、わたしたちはとても罪深い存在で、神様やイエス様に「友」と呼ばれるには程遠いと言い、いったいどうすればよいのかと問いました。

実は、これこそが傲慢な心そのものなのです。人間の努力でなんとかしようとしている、人間の力で神様に認められようと思い悩んでいる。

そうではないのです。神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。イエス様は罪にまみれた者、虐げられている者、病に苦しむ者、貧しさに悩む者、悲しみの中にいる者、そうした人たちに寄り添い、選び、友となってくださいました。

ルカによる福音書19章5節

5. イエスの一行は次第に近づいてきて、そのいちじく桑の木の下まで来ると、イエスは上を見上げて、こう言われた。「ザアカイ。さあ、急いで下りて来なさい。今日、あなたの家に泊まることにしているのですよ。」

聖書の有名なお話です。ザアカイとは取税人の頭、当時の社会では不正の象徴として人々から忌み嫌われていた存在です。そんな彼がイエス様を一目見たいと思い、いちじく桑の木の上から眺めていました。

イエス様はそんな嫌われ者のザアカイに説教をするでもなく、「ザアカイ、さあ下りて来なさい。あなたの家に泊まりに来たよ」と、優しくフレンドリーに語りかけました。

ザアカイはお説教されたわけでもなく、ただイエス様が友となって家へ来てくださっただけで、悔い改めました。財産の半分を貧しい人に寄付し、不正に取り立てた税は4倍にして返すと言いました。

ルカによる福音書19章9~10節

9. イエスは彼に言われた。「今日、この家にも救いが来ました。この人もアブラハムと同じ信仰を持ったのですから。
10. わたしが天からこの世に来たのは、罪のために神様から離れている人たちを、神様に立ち帰らせて、救うためです。」

神様の友

イエス様は、立派な人たちのためにこの世に来られたのではなく、わたしたち罪びとのために来てくださいました。神様はイエス様をこの世にお送りになり、わたしたち罪びとを選んでくださったのです。

嫌われ者の罪びとだったザアカイも、イエス様に選ばれ、友となり、悔い改めて神様に立ち帰りました。神様によって変えられたのです。

旧約聖書の時代は、父なる神様が預言者を通して人々を導かれました。新約聖書の時代には、子なる神様イエス様が来られ、わたしたちすべての罪を担ってくださいました。そして現代、神様は聖霊をわたしたち一人一人の内に送ってくださっています。

神様はわたしたちを選んでくださいました。あなたが特別だからではありません。この世のすべての人が救われることを、神様は望んでおられるのです。

心の中にもやもやした気持ち、悪い思い、誰かへの憎しみや悩みがあれば、心の中に宿ってくださっている聖霊様を通してお祈りしてみてください。

目を閉じて、心の中の聖霊様に祈りましょう。神様、どうかわたしたちを神様に立ち帰らせてください。わたしたちを清くし、どうか神様のために用いてください。

あなたの心が穏やかになりますように。悩んでいるとき、神様が助け手を送ってくださいますように。あなたが神様を信じて立ち帰ることができますように。お祈りしたいと思います。

城尾淳一