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思い煩わず、神に祈る特権

私たちは、イエス・キリストの十字架と死とよみがえりを信じて、永遠の救いと、神の子供と呼ばれる特権をいただきました。パウロは「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピリピ4:6)と勧めます。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくれるのです。いつでも、どこでも祈ることができる。これは何という恵みでしょうか。

イエス様の大胆な祈り

天に帰られる前に、イエス様はお弟子さん達のために祈られました。「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。わたしたちが彼らのうちにいて、彼らが完全に一つになるためです」(ヨハネ17章)。この祈りは、弟子たちだけでなく、「わたしは彼らばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします」(17:20)と、私たち異邦人のためにも捧げられたものでした。イエス様の祈りによって、父なる神様は、私たちの思いが神のうちにあり、神様の御思いが私たちのうちにあるように、生きる者としてくださったのです。

裂かれた神殿の幕が示す救い

イエス様が三年間、お弟子さんと多くのユダヤの民に示された、父なる神様の御心と愛は、十字架の死と葬りと復活によって完成しました。午後三時「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)と叫んで言われ、そして「全てが終わった」と言われ、首をたれて息をひきとられた時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました(マタイ27:51)。この出来事は、歴史の中に刻まれた、隠しようのない事実です。

いつでも、どこでも祈れる恵み

神殿の幕の向こうは至聖所で、父なる神様が唯一の神として住まわれる場所でした。年に一度、その年の大祭司だけが入って祈りをささげることができる場所だったのです。しかし神は、イエス様の死をもって、この幕を裂いて、世の人々が、イエス様の御名によって、いつでも、どこにいても、ご自分への祈りを聞き取ることとされました。マタイ、マルコ、ルカの各福音書に記された証人たちの証言は、いつもイエス様と一緒に旅をし、食事と休む場所を共にした人々によるものです。私たちは今、この証人たちの言葉を通して、主を仰ぎ見て生きる者とされているのです。

城尾マコト牧師