905579bb5175bc5041d129d24a284750

出エジプト記20章「あなたを守るためにきました」

出エジプト記20章18~20節

この箇所は、神様の圧倒的な臨在(雷・稲妻・ラッパの音・山の煙)の中で、民が恐怖に耐えきれず、モーセに仲介を求めて遠く離れた場面です。そこでモーセは民に「恐れるのではなく、畏れなさい」と語りかけます。


民の恐怖

出エジプト記20章18節

18. 民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。

神様が現れるときの描写

雷・稲妻・ラッパの音・煙という現象は、古代近東における神様が現れるときの定番の表現です。

不思議なことに、イスラエルの民は「真の神が現れる瞬間」をまだ見たことがないのに、この「定番の表現」を基礎知識として持っていました。

これは、人類が雷・稲妻・火山などの圧倒的な自然現象に「超越的な力」を感じ、自然災害があるときは「神様の怒りだ」と認識していたためです。

神様は、人間が理解できるように、人間のこの「定番の表現」を利用し、わかりやすく「わたしが来たよ」とイスラエルの民に伝えられました。

これは、神様が人間の文化・言語・概念に合わせて、ご自身を現される一つの例です。

「遠く離れて立った」理由

聖書には「民は遠く離れて立った」と書かれています。一見すると、これは恐怖のあまり逃げ腰になったように見えるかもしれません。しかし、私はこう思うのです。これは「恐怖で逃げた」のではなく、「恐怖を感じながらも、ギリギリのところで踏みとどまった」のだと。彼らは逃げ出したかったはずです。けれど、逃げなかった。

神様はモーセを通して何度も「境界に触れるな、必ず殺される」と警告をしていました。

また、古代近東では「神聖な領域に近づくと危険」という宗教的感覚が日常の中で共有されており、民は本能的に「これ以上近づいたら死ぬ」と感じていたのでしょう。

長年のエジプト生活で神とは目に見えるもの、手に触れるもの(偶像)と思っていたのに、見えないし触れない、それどころか天変地異で語り掛ける「生ける神様」に圧倒的な恐怖があったことでしょう。

おそらく民たちは一刻も早くここから逃げ出したかったと思います。

しかし、死ぬかもしれない恐怖を感じながらも民たちは逃げませんでした。普通は群衆は恐怖に出会うとパニックになって逃げだします、何万人いるかわからない大群衆です、パニックになれば将棋倒しになり、死ぬ者もいたかもしれません。とても偉いと思います。

出エジプト記の18章、19章では神様に会うために組織的に、肉体的に、霊的に準備をしてきました。百人隊長や千人隊長の存在も、恐怖の中で秩序を保つことに一役買っていたかもしれません。

神様は群衆がどのように感じどう動くかもご存じだったので、色々な事柄を通してモーセに備えをさせていました。


19節:仲介者への懇願

彼らはモーセに言った、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。

恐怖の限界に達したイスラエルの民は、神様が私達に語り掛けるのは恐怖すぎる、もう怖い、やだ!と、モーセに代わりに全部聞いてきて、それからこっちに伝えて欲しいと仲介を求めました。

「神様の声を直接聞くと死ぬ」という恐れというよりも、神様の圧倒的な臨在への本能的な恐怖の反応だったわけです。

「死ぬ」という恐怖の根源

イスラエルの民の恐怖は、深い神学的反省から来たものではありませんでした。その証拠に彼らはこれまで何度も神様を試すためにモーセに詰め寄り、不平を伝え、時にはモーセが殺されると恐怖するほどの威圧感をもって臨みました。

今までも奇跡は見てきましたが、それはエジプト人や敵に向けられたものでした。しかし今回、神様の圧倒的な臨在が自分たちに直接向けられたのです。これは全く違う恐怖でした。

わかりやすく説明すると、鉄砲を持ってる人が味方だと気持ちは大きくなりますが、鉄砲を向けられるようなものです。

「うわ、こんな恐ろしい存在が来てる!」

「近づいたら死ぬ!」

「モーセ、お前が代わりに行け!」

彼らは「罪の自覚を感じて聖なるものに近づくと死ぬ」畏れではなく、ただ物理的に恐怖していました。

しかし、この体験には深い意味がありました。

本来、聖なるものは「別格」であり、準備のない人間が触れると壊れてしまいます。

このイスラエルの民の恐怖体験は「聖なる神の前で、罪ある人間は立てない」という真理を体験的に学ぶものでした。

神様は、ご自身の栄光を彼らに現すことで、「神様を畏れる」ことを知って欲しかったのです。

偶像崇拝文化との違い:「制御できる神」への渇望

古代近東全体で「神様の領域は危険」という観念は共有されていましたが、重要な違いがあります。

イスラエルの民は400年エジプトに住み、エジプトの偶像に慣れ親しんでいました。これらは目に見え、神殿にあり、祭司が儀式で制御できる、人間のスケールに収まっているのが特徴です。

しかし、本物の神様は目に見えず、近づくことさえできません。モーセですらただの仲介役なのです。制御できない神なのです。

きっと心の中では

「モーセ!こんな危険な神を呼び出すなんて聞いてない!エジプトの神々のほうがまだ安全だった!」

と叫んでいたことでしょう。

この「制御可能な神への渇望」は、後の金の子牛事件(出エジプト32章)への伏線でもあります。

日本でも「八百万の神」として、結婚、子宝、受験、交通安全など、様々なニーズに合わせた神が祀られています。古今東西、人間は「制御できる神」を求めてきました。しかし聖書の神は、人間の都合で動く存在ではありません。

典型的な「制御できる神」の例として、戦前の日本があります。大日本帝国は国家神道のもと、天皇を現人神として祀り上げました。これは権力者が天皇を自由に利用するための道具に仕立て上げる行為でした。

多くの日本のキリスト教会はこの弾圧に屈し、迎合しました。しかしホーリネス教会は「天皇は神である」ことに異を唱え、「唯一の神は一人だけだ」と主張しました。

天皇に異を唱えた彼らは特高警察に捕らえられ、尋問や拷問を受けました。心に深い傷を負う者、命を落とす者もいました。

自分に都合の良い「制御できる神」を造り上げることは、神様への冒涜であると同時に、同じ人間を傷つける罪深い行為です。私たちはこの歴史から学ばなければなりません。

あなたを守るためにきました

出エジプト記20章20節

20. モーセは民に言った、「恐れてはならない。神はあなたがたの目の前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれたのである」。

神様は、シナイ山で現れて下さった時、大きな天変地異を伴い、そしてイスラエルの民は恐怖しました。

神様は、彼らが恐怖し、逃げ出したくなる中でも、今までの訓練の成果で踏みとどまることをご存じでした。

エジプト軍がもしここに押し寄せてきたなら、彼らは混乱と恐怖に陥り、将棋倒しになりながら多くの犠牲を出していたかもしれません。

神様は一見危険に見える形で現れますが、本質は愛と優しさで満ちています。

神様は罪びとを滅ぼすためではなく、罪びとにならないよう守るために現れてくださったのです。

神様が怖いのは、私たちを突き放すためではありません。私たちが罪によって傷つかないよう、愛をもって守るためなのです。どうぞ今日、この『恐ろしくも優しい、あなたを守る神様』の愛をしっかりと受け取って帰ってください。

ヨハネの第一の手紙4章18節

18. 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。

民が感じていた「恐れ」は「殺されるかもしれない」という刑罰への恐れでした。

しかし、イエス様の十字架による「完全な愛」は、その刑罰への恐怖を打ち消します。

「もうビクビクしなくていいんだよ、神様はあなたを愛しているのだから」

神様はあなたを愛してくださっています。

お祈りいたします。