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出エジプト記20章「罪を洗い流して下さるイエス様」
あなたは隣人について偽証してはならない
出エジプト記20章16節
16. あなたは隣人について、偽証してはならない。
神様がイスラエルの民に与えてくださった十戒の九つ目、それがこの「あなたは隣人について偽証してはならない」です。
いつものように、ヘブライ語を見てみましょう。
「לֹא־תַעֲנֶה בְרֵעֲךָ עֵד שָׁקֶר」(ロー・タアネー・ベレアハー・エード・シャーケル)と書いて、「あなたは隣人について偽りの証言をしてはならない」となります。
- לֹא(ロー)…「~してはならない」
- תַעֲנֶה(タアネー)…「答える、証言する」
- בְרֵעֲךָ(ベレアハー)…「あなたの隣人について」
- עֵד(エード)…「証人、証言」
- שָׁקֶר(シャーケル)…「偽り、虚偽」
古代イスラエルの法廷文脈
この戒めは、単なる一般的な嘘「כזב」(カーザーブ)ではなく、司法における偽証「עֵד」(エード)を特に禁じています。
古代イスラエルでは:
- 門の広場が裁判所だった
- 証人制度が司法の根幹
- 偽証の罰則は厳格
つまりこの戒めは、法廷での偽証を第一義的に禁じており、それが後に日常的な中傷や誹謗へと拡張されていったのです。
「隣人について」の重要性
「בְרֵעֲךָ(ベレアハー)」—「あなたの隣人について」という表現は非常に重要です。
神様は十戒を抽象的な道徳として語っておられるのではありません。隣人という言葉は、具体的な関係の中に生きる私たち一人ひとりを前提としています。
隣人とは、家族、同じ共同体、同じ生活圏の人々、そして神様が私たちに出会わせるすべての人を含みます。
つまり第九戒は、匿名の誰かについて語るのではなく、顔の見える人との関係を守るための戒めなのです。
現代に当てはめると、SNSのように顔の見えない相手であっても、一度言葉を交わした瞬間、その相手は「隣人」となります。
匿名だから責任がなくなるのではありません。むしろ匿名だからこそ、相手を尊重する心が試される時代になりました。
偽りの言葉は、物よりも深く、人間関係そのものを傷つけます。
だからこそ神様は、「隣人について」とあえて具体的に言われたのです。私たちが日々関わる人たちの名誉を守り、互いの間に信頼が築かれるよう願っておられるのです。
単なる「嘘」との違い
ヘブライ語には嘘を表す言葉がいくつかあります:
- שָׁקֶר(シャーケル)… 法的・公的な文脈での虚偽(第九戒)
- כָּזָב(カーザーブ)… 一般的な嘘、欺瞞
- שֶׁוא(シャーウ)… 実質のない、空虚なもの(第三戒)
第九戒が「שָׁקֶר(シャーケル)」を使っているのは、公的な場での虚偽証言を特に重視しているからです。
つまりこの戒めは、単に口から悪い言葉を発することよりも、「他者の人生に影響を与える証言における真実性」という、より具体的で重い責任を指しているのです。
第九戒の目的と神の意図
この戒めは、何のために私たちに与えられたのでしょうか。いくつかの観点から見ていきましょう。
1. 即時的・社会的効果
司法制度の保護
古代イスラエルの法制度は、証人制度に完全に依存していました。DNA鑑定も指紋照合も監視カメラもない時代、人の言葉だけが唯一の証拠でした。偽証が横行すれば、無実の人が死刑となり、真の犯罪者は野放しになります。第九戒は、司法の崩壊を防ぎ、公正な裁判を守るために与えられました。
共同体における信頼関係の維持
証言が信頼できなければ、社会は成り立ちません。商取引、土地の売買、結婚、相続—古代社会のあらゆる契約は、証人の言葉の信頼性の上に成り立っていました。第九戒は、言葉が信頼に値するものであることを保証し、共同体全体の信頼の基盤を築くために与えられたのです。
弱者の保護
権力者や富裕層は、偽証によって弱い立場の人々から財産を奪ったり、無実の罪を着せることができました。列王記上21章のナボテの事件がその典型例です。王妃イゼベルは偽証人を立ててナボテを処刑し、彼のぶどう畑を奪いました。第九戒は、権力による不正から一般市民を守るために与えられたのです。
2. 神学的効果
神様の性質の反映
神様ご自身が真理です(ヨハネ14:6「わたしは道であり、真理であり、いのちです」)。また「神様は偽ることができない」とヘブル人への手紙6章18節は教えています。一方、ヨハネの福音書8章44節では、悪魔が「偽りの父」と呼ばれています。
第九戒は、神様の民が真実である神様の性質を反映する民として生きるために与えられました。真実を語ることは、単なる道徳的行為ではなく、神様に似た者となることなのです。
契約関係の維持
神様と人との関係、そして人と人との関係は、すべて真実な言葉の上に築かれます。神は真実な方であり、その約束を必ず守られます。同様に、神様の民も互いに真実を語ることで、信頼に基づく契約関係を維持できます。
偽りの言葉は、神様との関係だけでなく、隣人との関係をも破壊します。第九戒は、真実な言葉によって神と人、人と人との絆を守るために与えられました。
まとめ
第九戒は次のような目的のために、神様が私たちに与えてくださった戒めです。
社会的レベル
- 公正な司法制度を守るため
- 共同体における信頼関係を維持するため
- 弱い立場の人々を権力の不正から守るため
神学的レベル
- 真実である神様の性質を反映する民を形成するため
- 神様と人、人と人との契約関係を維持するため
つまり第九戒は、健全な社会、健全な共同体、そして神様に似た民を築くために与えられた戒めなのです。
この戒めは法廷での証言という具体的な場面を通して、言葉の力と責任という普遍的な真理を私たちに教えています。私たちの言葉は、人を生かすこともできれば、殺すこともできます。だからこそ神様は「偽証してはならない」と命じられたのです。
第九戒の適用範囲について
第九戒は、ヘブライ語の原文から見ると法廷での虚偽の証言を禁じていることが分かります。古代イスラエルでは証人の言葉だけが証拠であり、偽証は人の生死を左右する極めて重大な罪でした。
しかし、この戒めをどこまで適用するかについては、長い解釈の歴史があり、様々な立場が存在します。ユダヤ教のラビ(所謂、指導者たち)は中傷や陰口も含めて解釈し、カトリック教会は誹謗・ゴシップ・軽率な判断なども射程に入ると教えてきました。プロテスタント諸派でも、法廷での偽証を核心としつつ、「隣人を愛する」原則から広く適用する立場があります。
重要なのは、第九戒の解釈がどうであれ、聖書全体は言葉の責任について明確に教えているということです。レビ記19:16は中傷を禁じ、箴言は「偽りの舌」を神様が憎まれると繰り返し教え、ヤコブ書は舌の破壊力を警告しています。
つまり、第九戒が法廷での偽証に限定されるかどうかに関わらず、悪口、中傷、嘘は聖書全体で明確に禁じられています。私たちは法廷だけでなく、日常のあらゆる場面で、真実を語り、隣人の名誉を守り、愛をもって言葉を用いる責任があるのです。
偽証の犠牲者イエス様
聖書には偽証によって財産や命を奪われた人々が描かれています。あなたはこれらの人たちをどれだけ知っているでしょうか。
イエス様もまた、偽証によって死刑の宣告を受け、十字架にかけられました。
罪を犯していないのに、神様を冒涜したと偽証され、多くの人々が扇動され、イエス様を無罪放免にしようとしていたピラトでさえ、大勢の「イエスを殺せ」という声に負けてしまい、十字架という残酷な刑で殺されてしまったのです。
しかし第九の戒めは「律法の話」だけではなく「十字架に繋がる話」でもあり、イエス様の救いと密接につながっていました。
罪を洗い流して下さるイエス様
前々回の出エジプト記20章14節「あなたは姦淫してはならない」の話を覚えていますか。
この第七の戒めでは、女性を情欲の目で見る者は誰でも姦淫をしたのだと、イエス様は仰いました。そして、罪を犯さずに生きることは不可能である、というお話をしました。
隣人について偽証をしてはならない。これはただ嘘をつくだけでなく、口から出る悪い言葉全般が、律法により禁じられていると解釈されています。
言葉の罪は人の努力で止めることはできません。怒りや嫉妬がある日突然あふれ出ることもあるでしょう。なんだか悔しくて相手を否定したくなる時もあります。ちょっとしたいたずら心で、何気なく悪口が出てくることもあります。
十戒を含む律法は、私たちを「こんな厳しい戒め、守るなんて難しすぎる」と絶望させるためにあるのではありません。「私たちは律法を完全に守れないからこそ、イエス様の救いが必要なんだ」と気づかせ、救いに導く「養育係」なのです。
聖書を是非読んでください。聖書には、あなたのために沢山の言葉が書かれています。神様からあなたへ贈られた言葉です。言葉には命があり、力があります。
その中で、もし自分の罪に気づいたなら、神様にお祈りしてください。
「神様、わたしは今、罪を犯しました。どうか、わたしの罪を許してください」
神様の子であるイエス様は、すべての人の罪を背負って十字架にかかり、亡くなられました。そのすべての人の罪には、私たちも含まれています。
完全な罪のない、完璧な生贄が捧げられることで、私たちの罪は贖われました。イエス様によって、私たちの罪は赦されました。
イエス様はあなたの罪を覆い、そして洗い流して、私たちを救いの道へと導いてくださいます。
イエス様が私たちのために罪を贖ってくださったことを信じ、そして感謝して毎日を生きていけるよう、お祈りしたいと思います。