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ヤコブ書3章「聖書のみの信仰」

1. 聖書の権威──「聖書はこう言っている」

「聖書はこう言っている」

イエス様が荒野で悪魔の誘惑に立ち向かわれた時、用いられたのは御言葉でした。人間の知恵でも、自らの神性でもなく、ただ聖書の言葉をもって対抗されたのです。なぜなら、聖書には神の権威が伴っているからです。

私たちが信仰のルーツを辿れば、イスラエルへと行き着きます。先人たちの信仰の歩みを通して、私たちはイスラエルを愛するようになりました。「聖書がこう言っている」と語るのは、聖書こそがクリスチャンにとって権威ある神の言葉だと信じているからです。

2. 宗教改革──「聖書のみ」の原則

五百年前、宗教改革によって大きな転機が訪れました。それまでラテン語でしか読めなかった聖書が、人々の母語で印刷され、一人ひとりの手に届くようになったのです。

「権威ある人がそう言っているから」
「教会の伝統がそうだから」

ではなく、ただ「聖書のみ」(Sola Scriptura)を信仰の拠り所とする道が開かれました。これは革命的な出来事でした。聖書は神の霊感によって書き留められた、唯一無二の権威なのです。

3. ヤコブの物語──身内だからこそ見えなかった真実

幼少期:兄から学んだ聖書

弟ヤコブは、幼い頃から兄イエス様と共に聖書を学び育ちました。旧約聖書、特にモーセ五書を中心としたユダヤ教の教えを、日々の生活の中で学んでいったことでしょう。

若くして召された父ヨセフの後を継ぎ、大工として家計を支えていた兄イエス。ユダヤでは十三歳で成人を迎えますから、イエス様も早くから家長としての責任を担い、弟妹たちの面倒を見る、頼りになる兄だったに違いありません。

十二歳の神殿での出来事:最初の気づき

イエス様が十二歳の時、両親とともにエルサレムへ神殿詣でをされました。その時の出来事は実に印象深いものでした。

三日間も行方不明になったイエス様を、両親が必死で探し回った末に見つけたのは、神殿で学者たちと議論している姿でした。しかも、学者たちが驚くほどの知恵と理解力を示していたのです。

「わたしが自分の父の家にいるのは当然ではありませんか」

この言葉の意味を、その時は誰も理解できませんでした(ルカ2章41-52節)。両親は天使のお告げを受け、処女懐胎という奇跡を経験し、羊飼いたちの訪問やシメオンとアンナの預言を聞いていました。頭では分かっていても、日々の生活の中では「普通の息子」として育てていたのです。

おそらくヤコブも一緒にいたでしょう。「兄さんが学者たちと対等に、いやそれ以上に語っている!」という驚き。子供の頃から一緒に聖書を学んでいたヤコブにとって、これは最初の「あれ?兄さんは普通じゃないかも」という体験だったかもしれません。

しかし、その後の日常の中で、この驚きは次第に薄れていったのでしょう。

公生涯:戸惑いと受け入れがたい思い

やがてイエス様は家を出て、神の国を語り始めました。

家族を支えてきた、頼りになる兄が、突然、家を去った。そして律法学者やパリサイ人たちと対立し、権威に逆らい、危険な道を歩み始めた。

「何をしているんだ、兄さん」
「家族を放って、あんな無茶なことを…」

福音書の記録では、イエス様の兄弟たちは当初イエス様を信じていませんでした(ヨハネ7章5節)。身内だからこそ、「あの兄が救い主だなんて」と受け入れがたかったのです。戸惑いと、もやもやとした気持ちを抱えながら、ヤコブは見守るしかありませんでした。

十字架:最悪の結末

そしてついに、イエス様は逮捕され、十字架刑に処せられました。

「ほらみろ、だから言ったのに」
「そんな無茶をするから、こんなことになるんだ…」

ヤコブの心には、そんな思いがあったかもしれません。すべてが終わったように見えました。

復活:すべてがひっくり返る瞬間

ところが──復活。

死んだはずの兄が、生きて現れた。これは単なる奇跡ではありませんでした。すべての意味が変わる出来事でした。

子供の頃に兄から聞いた聖書の言葉、メシア預言、イザヤ書、詩篇、モーセ五書の教え…それらが一気に繋がったのです。

「あの時兄さんが語っていたのは、これだったのか!」
「聖書が預言していた通りだ!」
「本当にメシアだったんだ!」

身内だからこそ、すぐには信じられませんでした。でも、だからこそ、信じた時の確信は揺るぎないものとなったのです。

復活後、使徒の働き1章14節には「イエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに」祈っていたと記されています。そしてヤコブは、エルサレム教会の指導者として、使徒たちと並ぶ重要な存在となりました(使徒15章、ガラテヤ2章)。

遅咲きながらも、ヤコブの信仰は力強く花開いたのです。

4. 福音の継承──私たちへの宣教命令

復活されたイエス様は弟子たちに命じられました。

「この福音を宣べ伝えなさい。わたしは道であり、真理であり、いのちです。ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てまで行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」(マルコ16章14-16節)

今、私たちのもとにまでこの福音は届いています。私たちはイエス様が制定されたバプテスマを受け、聖餐式に与っています。二千年の時を超えて、同じ信仰が受け継がれているのです。

5. 「聖書のみの信仰」

ヤコブの物語は、私たちに何を教えているのでしょうか。

ヤコブは幼い頃から聖書を学んでいました。イエス様ご自身から教えを受けていました。しかし、人間的な視点──「身内」という関係性、日常の経験、常識的な判断──が、真実を見えなくさせていたのです。

しかし復活という出来事によって、ヤコブは悟りました。

聖書こそが真実だった。

人間の判断や感情、経験や常識ではなく、神の霊感によって書かれた聖書の言葉こそが、絶対的な権威であり、真理なのだと。

これが「聖書のみの信仰」(Sola Scriptura)です。

私たちも同じです。人間の知恵、権威者の言葉、世の中の常識、自分の経験や感情──これらすべてを超えて、ただ聖書の言葉に信頼を置く。それが、イエス様が荒野で悪魔に立ち向かわれた時に示された信仰の姿勢です。

「聖書はこう言っている」

この言葉に込められた権威と真実を、私たちは受け継いでいます。宗教改革によって「聖書のみ」という原則が回復され、今、私たち一人ひとりが神の言葉を手にしています。

ヤコブのように、私たちも時には人間的な視点に囚われてしまうかもしれません。しかし、聖書に立ち返る時、私たちは真理を見出すのです。

神の霊感によって書き留められた聖書──これこそが、私たちの信仰の唯一の土台です。