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出エジプト記20章「それにひれ伏してはならない」

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない

長い間、エジプトで奴隷として苦しみ続けていたイスラエルの民たちは、神様の深い恵みによってモーセを通してエジプトから救い出されました。その後、数々の困難と試練に遭遇しながらも、ついにシナイ山のふもとへとたどり着いたのです。

彼らが神様の民として神様と聖なる契約を結ぶために、まず必要なことがありました。それは、長年にわたって染み付いてしまった奴隷としての考え方から解放され、一つの秩序ある民族として整えられることでした。彼らは身も心も清められ、準備を整えて、ついに神様から十戒を授けられることとなったのです。

1. あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない

イスラエルの民は、アブラハム、イサク、ヤコブの時代から代々受け継がれてきた信仰を持っていました。それは、主なる神様がただお一人だけの真の神であるという信仰でした。しかし、長年にわたるエジプトでの生活において、彼らは周囲の偶像礼拝の文化に大きな影響を受けてしまっていたのです。

人間の弱さゆえに、目に見えない神様よりも、自分の目で確認でき、手で触れることのできる偶像の方が、より頼りがいがあるように感じてしまうものです。自分にとって都合の良い、分かりやすい存在を心の支えとしたくなるのが、私たち人間の性なのかもしれません。

だからこそ、この最初の戒めは私たちに語りかけているのです。心が弱くなり、試練に遭って辛い時こそ、目に見える偽りの神々ではなく、目には見えなくとも真実である神様を信じ続けることの大切さを教えているのだと思います。

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない

出エジプト記20章4節

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

これは二つ目の戒めの前半で、一つ目の戒めと密接に関係しています。ここで禁じられている「刻んだ像」とは、自分のために手に触れることのできる、目に見える、自分にとって都合の良い偽りの神を指しているのです。

この戒めを現代の私たちが読むと、様々な疑問が浮かんできます。「子どもの頃お母さんからもらったぬいぐるみは大丈夫なの?」「アニメのフィギュアはどうなの?」「プラモデルを飾るのは?」このような疑問を理解するために、聖書が記された時代背景を見てみる必要があります。

聖書の時代において、像を造るということは非常に大変な作業でした。専門的な技術が必要で、金持ちや権力者以外には作ることが困難でした。一般庶民にとって像を造ったり所持したりすることはハードルが高く、そもそも現代のような「娯楽」という概念はほとんど存在しませんでした。

そのため、聖書の時代に「刻んだ像を造る」という行為は、必然的に宗教的な意味を持っていたのです。現代は様々な娯楽に溢れ、工業技術も発達しているため、簡単に様々なキャラクターを模したものを生産し、一般の人々が手にすることができます。

私たちはこれらを大好きで大切にしますが、祈ったり崇拝したりする対象にはしません。世界中のキリスト教の中には聖書の言葉を厳格に解釈し、これらも禁止する宗派もありますが、カトリックやプロテスタントなど大多数のキリスト教では、明確な線引きをしているのが一般的です。

しかし、何においても神様を最優先にしなければなりません。のめり込みすぎると、それは貪欲なものとなりかねないのです。

コロサイ人への手紙3章5節

5. だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

現代においては個人の価値観が重要視され、多様性の時代と言われています。しかし、それは経済が発展し、過酷な自然環境から切り離された安心で安全な環境の中で生まれた新しい考え方とも言えます。

いつでも神様が最優先であることを忘れず、節度をもって生きていけるよう、自分自身を正しく律していく必要があるのです。

出エジプト記20章5~6節

5. それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
6. わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みをほどこして、千代に至るであろう。

二つ目の戒めの後半です。人間が自分の手で造った偶像に対して礼拝したり、仕えたりすることを神様は厳しく禁じておられます。

神様はここで「ねたむ神」であると宣言されていますが、この「ねたむ」という言葉は、私たち人間の持つ「嫉妬」とは根本的に異なる意味で用いられています。

聖書の原文であるヘブライ語では「エル・カンナー」(אֵל קַנּוֹא)と記されています。「エル」は神を意味し、「カンナー」は「ねたむ」という意味の他に「熱心な」「情熱的な」という意味も含んでいます。つまり、神様は燃えるような熱い情熱をもって私たちを愛してくださる方であることが示されているのです。

神の「ねたみ」と人間の「嫉妬」の違い

神学的な観点から説明するなら、両者には決定的な違いがあります。

人間の「嫉妬」は、本来自分に属さないものを欲しがる感情です。他人が持っているものを羨み、それを自分のものにしたいと願う心の動きです。

一方、神様の「ねたみ」は、本来神様に属するべき礼拝や愛を、他の対象に向けることに対する義なる怒りなのです。

神様の立場から言うならば、「わたしがあなたたちを創造し、深く愛し、救いを与えた。その愛への応答として、なぜ偶像に礼拝を捧げるのか」という、愛ゆえの熱情的な憤りの表現なのです。

礼拝の本来の姿

礼拝とは本来、創られた者が創った者に対して行うべきものです。しかし偶像礼拝においては、この関係が完全に逆転してしまいます。造った者が造られたものに対して礼拝を捧げているのです。

これほど本末転倒なことはありません。なぜ人間の手で造られた、人間の魂を救う力など全くない被造物に、人は心を奪われてしまうのでしょうか。

現代の私たちが直面する課題

日本で育ったクリスチャンの多くは、お寺や神社の文化にも身近に接しながら生活しています。知識としては「あれらは本当の神様ではない」と理解していても、長年にわたって周囲の人々の振る舞いを見ているうちに、どこか神聖な雰囲気を感じてしまうことがあるのではないでしょうか。

また、学校や職場などの団体行動において、自分とは異なる宗教的文化に触れざるを得ない場面もあるでしょう。そのようなとき、私たちはどのように振る舞うべきなのでしょうか。

実は聖書の中には、このような状況でどう行動すべきかを示してくれる記述がいくつか存在します。

スリヤ軍の隊長ナアマンの物語

列王記に記されているナアマンの物語を見てみましょう。

彼はスリヤ(アラム)という国の軍隊の隊長でしたが、らい病を患っていました。聖書に記される「らい病」は、現代のハンセン病の可能性もありますが、当時は皮膚に現れる様々な異常――白く変色したり、ただれたり、腫れ上がったりする症状全般を「らい病」と呼んでいたと考えられています。

ある日のこと、彼に仕えていたイスラエル出身の若い女性が、「もしご主人様がサマリヤにおられる預言者のもとに行かれたら、そのらい病を治していただけるでしょうに」とつぶやきました。この話が巡り巡って、ついにスリヤの王の耳に届いたのです。

スリヤの王は、当時敵対関係にあったイスラエルの王に手紙を書き、ナアマンをイスラエルへと派遣しました。「どうか彼のらい病を治してやってください」と懇願したのです。

イスラエルの王は、この手紙を受け取って激しく憤りました。「私は神ではないのに、なぜ病気を治せというのか。これは私に喧嘩を売っているのではないか」と考えたからです。

エリシャの指示

イスラエルには「神の人」と呼ばれた預言者エリシャがいました。彼はイスラエルの王がスリヤからの手紙に困惑していることを知り、ナアマンを自分のもとへ来させて、こう告げました。

「あなたはヨルダン川に行って、七回身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉は元に戻って清くなるでしょう」

ナアマンは大いに失望し、怒りました。きっと預言者なら神様に祈りを捧げ、病気の箇所に手をかざして劇的に治してくれるものと期待していたからです。さらに、ヨルダン川はそれほど美しい川ではないのに、なぜもっと清らかな川ではいけないのかと不満を募らせました。

そして憤然として帰ろうとしましたが、ナアマンの部下たちが智恵深い言葉で彼を説得しました。

「もし預言者があなたに何か大きなことをせよと命じられたなら、あなたはそれをなさったでしょう。ただ『身を洗って清くなりなさい』と言われただけではありませんか」

ナアマンはこの言葉に心を動かされ、エリシャの指示に従いました。すると、彼のらい病は完全に癒やされ、幼子のように美しい肌になったのです。

ナアマンの信仰告白と葛藤

ナアマンは主なる神を信じるようになり、エリシャに感謝の贈り物を申し出ましたが、エリシャはそれを丁重に断りました。

列王記下5章17~19節

17. そこでナアマンは言った、「もしお受けにならないのであれば、どうぞ騾馬に二駄の土をしもべにください。これから後しもべは、他の神には燔祭も犠牲もささげず、ただ主にのみささげます。
18. どうぞ主がこの事を、しもべにおゆるしくださるように。すなわち、わたしの主君がリンモンの宮にはいって、そこで礼拝するとき、わたしの手によりかかることがあり、またわたしもリンモンの宮で身をかがめることがありましょう。わたしがリンモンの宮で身をかがめる時、どうぞ主がその事を、しもべにおゆるしくださるように。
19. エリシャは彼に言った、「安んじて行きなさい」

ナアマンは真の神を信じる決心を固めたので、らば二頭分(約160キログラム)という相当な量のイスラエルの土を持ち帰ることにしました。

当時の宗教観では、神々はそれぞれ特定の土地に宿ると考えられていたため、イスラエルの神を礼拝するためにはイスラエルの土が必要だとナアマンは考えたのです。真の神は全知全能でどこにでもおられるお方なので、実際にはどこの土でも問題はないのですが、エリシャは彼の神に対する真摯な心を理解し、余計なことは言わずにそれを受け入れました。

ナアマンの苦悩と神の寛容

さらにナアマンは、軍の隊長という立場上の深刻な悩みを打ち明けました。主君と共にスリヤの神「リンモン」の神殿に出入りし、王が礼拝する際に付き添わなければならないという義務についてです。

おそらくナアマンは深く苦悩したことでしょう。心では真の神以外には礼拝したくないが、社会的立場上、偶像の神殿に行き、形式的にでも身をかがめなければならない。主君に対する忠義も大切にしたいし、波風を立てたくもない。しかし同時に、心の中では真の神への信仰を保ち続けたい――この両立は可能なのだろうか、という深刻な葛藤です。

これに対するエリシャの答えは実に簡潔でした。「安んじて行きなさい」。

この言葉は、神様の深い理解と寛容を示しています。心の中で真の神への信仰を保っているなら、社会的立場による形式的な行為について、神は理解してくださるということなのです。

わたしの失敗体験談

今年の春に、叔父さんが亡くなりました。
仏教式のお葬儀ですので、焼香やおじぎなど、作法があります。

わたしはキリスト教なので、と言って焼香をお断りして余計に空気を悪くするのもよろしくないなと思い、おじぎをするのはどうなんだろ、だいじょうぶかな?と、葛藤しながらでしたので、結構ぎこちない感じで返って失礼に見えたのかなと反省する点も多々あったかなと思います。

やはり、他の宗教とはいえ正しい作法の知識を学んだうえで、どのようにふるまうべきかをきちんと考えたうえで、事前に喪主や主催の方たちに事前に連絡をしたうえで行動すべきだったと思います。

大切なつながりのある人たちに対する敬意をきちんと持ったうえで、自分はどのようにふるまうべきかを神様に相談することは大事な事なんだと思います。

私たちへの適用

ナアマンの物語は、現代の私たちにも大きな慰めと指針を与えてくれます。信仰と社会生活の間で葛藤するとき、大切なのは私たちの心がどこに向いているかなのです。

キリスト教のわたしは、偶像にひれ伏してはならない、拝んではならない。という戒めを守るのは簡単だと思っていた時期がありました。

でもそれは、時によっては適切な言葉を選び、適切なふるまいをしなければ無用な対立を生んでしまうことにもなりかねません。

相手の気持ちを思いやり、そして誠実である事もとても大切なことです。

いつでも心の中心に神様にいてくださり、そして神様に正しく導いてもらえるように歩んで行けたらと思います。