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出エジプト記18章「備えなさい」
イスラエル人の荒野の試練
神様に選ばれた預言者モーセは、長い間エジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルの人々を、神様の導きによって救い出し、神様との約束の地であるカナンに向かって荒野を旅していました。
彼らは神様に導かれての旅でしたが、何ひとつ障害のない順調な旅ではありませんでした。この約束の地へと向かう旅路は、ただイスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出すことだけが目的ではなく、この民を神様の民としてふさわしい者に育て上げるため、厳しく訓練することも神様のご計画に含まれていました。ですから神様は、彼らの行く手の障害をあらかじめ取り除いたりはなさいませんでした。
旅の途中でたくさんの困難が起こり、その度に彼らは神様に対する信仰を試されることになりました。エジプト軍に追われたり、飲み水がなくなったり、食べ物が底をついたりもしました。
「おい、モーセ!水がないぞ。我々は渇いて死んでしまう。なんとかしろ!」
「モーセ、お前が我々をエジプトから連れ出さなければ、今頃エジプトで腹いっぱい肉を食べていたのに!」
本当なら、ここで「神様がきっと助けてくださる。みんなで神様にお祈りしよう」となるべきなのですが、イスラエルの民はモーセに詰め寄り、文句を言うばかりでした。
神様はその度に「この民はなぜわたしを試すのか。なんと不信仰な者たちよ」と嘆かれましたが、それでも憐れみの心をもってイスラエルの民を助けてくださいました。
そしてついに、イスラエルの人々に敵対するアマレク人がやってきて、彼らに襲いかかりました。モーセは神様の御言葉に従って丘の上で杖を取り、両手を天に向かって掲げました。神様が奇跡を起こしてくださり、ついにアマレク人を退けることができたのです。
祭司エテロとの再会
さて、モーセには義理の父であるエテロという人がいました。エテロはミデヤンという土地で祭司をしており、アマレク人と戦ったレピデムからそれほど遠くない場所に住んでいました。
彼はモーセがエジプトからイスラエルの民を連れ出したという知らせを聞きつけ、はるばるモーセに会うために、自分の娘であり、モーセの妻であるチッポラと、その二人の子供も連れてやってきました。
出エジプト記18章6節
6. その時、ある人がモーセに言った、「ごらんなさい。あなたのしゅうと、エテロは、あなたの妻とそのふたりの子を連れて、あなたの所にこられます」。
口語訳の聖書だと状況がわかりにくいですね。「ある人がモーセに言った」とありますが、なぜモーセの義理の父親と妻と子供のことを知っているのか?と混乱してしまう場面です。これはエテロがモーセを訪ねてきた時に、自分が何者であるかを伝えて取り次いでもらったと考えるのが自然でしょう。
モーセとエテロは、おそらく半年から1年以上ぶりの再会だったと思われます。モーセはエテロの来訪をとても歓迎し、これまで起こった出来事、神様がしてくださったことについて詳しく話しました。
出エジプト記18章10節
10. そしてエテロは言った、「主はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトびとの手と、パロの手から救い出し、民をエジプトびとの手の下から救い出された。
11. 今こそわたしは知った。実に彼らはイスラエルびとにむかって高慢にふるまったが、主はあらゆる神々にまさって大いにいますことを」。
12. そしてモーセのしゅうとエテロは燔祭と犠牲を神に供え、アロンとイスラエルの長老たちもみなきて、モーセのしゅうとと共に神の前で食事をした。
エテロは異邦人の祭司、つまりイスラエルの神様とは異なる宗教の人でしたが、モーセの話を聞いて、モーセの信じる神様はあらゆる神々の中でも特別に素晴らしい方だと賞賛しました。
古代中東における宗教事情は、まるで日本のように割とおおらかで、よその宗教を排除するような雰囲気ではありませんでした。
実はエジプトも宗教に関しては割と寛容で、自分たちの宗教以外はダメということはありませんでした。ただし、パロ自身が神の化身であるとし、自分より劣った他国の神である、という傲慢さを持っていました。
千人の長
出エジプト記18章13節
13. あくる日モーセは座して民をさばいたが、民は朝から晩まで、モーセのまわりに立っていた。
14. モーセのしゅうとは、彼がすべて民にしていることを見て、言った、「あなたが民にしているこのことはなんですか。あなたひとりが座し、民はみな朝から晩まで、あなたのまわりに立っているのはなぜですか」。
エテロはモーセの周りに集まってくる大勢のイスラエル人を見てびっくりしました。
彼らは色々な問題や事件をモーセに相談し、モーセ一人でそれを解決していました。
それが朝から晩まで続き、モーセのところにやってくるイスラエルの民は途切れることがありませんでした。
このままではいけない。こんなことをずっとしていたらモーセも過労で倒れてしまうし、イスラエルの民もずっと順番待ちで疲れてしまう。
これはお互いのためにも本当によくない。
エテロはモーセに言いました。
「モーセ、それはよくない。いずれあなたも民も疲れ果ててしまう。こうしなさい。有能で神様を恐れ、誠実で不正を働かない人を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。普段は彼らに民を裁かせて、あなたは大きな事件だけ裁くようにしなさい」
これは革命的な組織運営ではなく、エテロが祭司をしていた長年の経験によるアドバイスだったのではないでしょうか。
なぜなら、イスラエルの民の中にも長老たちがいますし、部族制度は機能しています。
エジプトでも組織的に労働していましたし、よくよく考えると100万人を超える大集団の中で、すべての問題にたった一人で対応しようとしているモーセの方が異常すぎる事態でした。
有能な人間を見つけてきて小さい事件は彼らに任せなさい、ということは、ごくごく普通で自然で当たり前のことだったと思います。
つまり、モーセがものすごく真面目すぎて「全部一人でやらなければ」と抱え込んでいたということになります。
きっと、エジプトからここに来るまでの間、移動せずに宿営している間は、一人でイスラエルの民たちの問題事を解決していたのでしょう。
神様にとってモーセは他の預言者と違って、夢ではなく直接語りかけるくらい、歴代の預言者の中でも大のお気に入りでした。
普通なら、きっと直接神様が「モーセ、モーセ、それではあなたが倒れてしまう。有能な人を見つけて彼らに任せなさい」と言われていたでしょう。
今回、モーセに助言をしたのは神様ではなく、異邦人のエテロでした。
モーセの信じる神様を素晴らしいと賞賛していても、他の造られた神を信じていればそれは偶像崇拝となります。
これは、聖書的に正しくない宗教観を持つ人を通して、神様が組織運営の知恵を与えてくださったということになります。
しかし、偶像を礼拝する者だからといって、彼らの言っていることすべてが間違っているということにはなりません。
自分自身と本当の神様との関係を正しくし、大切なことを学ぶ素直で謙虚な気持ちもとても大切である、とこの聖書の箇所は私たちに教えてくださっているのだと思います。
モーセはエテロの助言の通りに有能な人を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を立てて、彼らに小さい事件を任せることにしました。
こうして、エテロはモーセに見送られて自分の国へ帰っていきました。
神様との契約の備え
一見すると、今回の出エジプト記18章は、組織運営や体制整備が中心で、神様との関係について語られる場面は少ないように思えるかもしれません。
しかし実際には、この章は次の19章、つまり神様との契約という霊的にきわめて重大な出来事に向けた神様ご自身の備えであることが見えてきます。
エジプトを脱出し、約束の地カナンへと向かう旅は、単なる民族移動の物語ではありませんでした。
それは神様がイスラエルの民を、ご自身の聖なる民として整え、高い使命を託すための訓練の旅路だったのです。
やがてこの民は、神様の掟と律法を携え、この地上で神のご性質をあらわす使命を負うことになります。
そのためには、信仰だけでなく、秩序と責任をもって共に歩む力が必要でした。
出エジプト記18章は、まさにその土台作りです。
ここでモーセがエテロの助言を受け入れ、民が共同体として機能する準備が整えられました。
そして19章では、いよいよ神様がシナイ山で現れ、イスラエルの民をご自身の契約の民として迎えるために、霊的な清めと備えが始まります。
神様のご計画は、霊と肉の両方にわたる全体的な整えなのです。
一人の人として、わたしの備え
さて、イスラエルの民たちは、もしかするとこう思っていたかもしれません。
「とにかくエジプトの苦しい奴隷生活から解放されて、生き延びられればそれでいい」
そんな彼らにとって、神様の民として選ばれ、訓練され、契約を結び、使命を与えられるなんて、夢にも思わなかったかもしれません。
もちろん、彼らはアブラハムやヤコブからの伝承、約束の地の話は聞かされていたでしょう。でもそれが「現実に自分たちに起こる」とは、実感がなかったのではないでしょうか。
イスラエルの民は普段の行いが良かったから神様に選ばれたのではありません。
ただ、一方的に神様に選ばれ、神様の恵みに預かりました。
これは、とても覚悟のいる事だと思います。
神様の恵みに預かるのは、ただただ、一方的に神様が選んでくださったからです。
そして、神様の恵みに預かるためには、神様の戒めを守らなければいけません。
いま、わたしの心の中には
「わぁ、これは大変だ」
「うーん、ちょっとしんどいかも」
「できるかな・・・?」
疑問があります、楽に生きていきたい、義務や戒めを守るために自分を正して生きていかねばならない、大丈夫だろうか、自信がない。
これはひょっとして・・・自分の中に罪があるからじゃないのか、悩み、葛藤します。
なんていうのかな、私には「欲」があり、この欲を全て捨て去らないといけない。
自分には強い意志がなく、自信がない。また欲に引っ張られて戻ってしまうかもしれない。
そんなに悩むくらいなら、神様の道に進まず楽に自分の気持ちに忠実に生きていきたい。
そう考える自分もそこにいます。
聖書のメッセンジャーは力強く「ただしい人であるべきこと」を当たり前のように語ります。
それを聞いている間は心が鼓舞されて「そうだ、その通りだ」と自分の心も奮い立たせます。
メッセージを聞き終えて教会から出ると、そこにはサタンが待ち受けています。
「おかえり、さぁ、好きに生きよう!!」
なんてことだ。もう台無しだ。
意気消沈してまた教会から離れてしまう。
創世記では神様はあまりにも人間たちが罪深いために洪水で人々を滅ぼし、そしてノアの家族だけ救いました。
ノアは箱舟を作り、完成すると動物たちをひきつれて箱舟に入りました。
神様は箱舟の入り口を閉められました。
箱舟の入り口を閉めるというそのことの意味は、ノアが再び罪にまみれた世界に戻ってこれないよう、後戻りのできないよう、滅んでしまわないよう、そういう意味も込められています。
そう、神様に従う人生というのは、後戻りができない人生です。
ただ唯一、滅びから免れることのできる救いの道はとても狭く、きびしく、気を抜くと滅びにいたる道です。
欲望に負けて神様以外のものに惹かれてしまうその弱い心は偶像礼拝につながります。
ただただ、神様だけを見て、生きていかないといけません。
わたしの心の中に、神様を迎える準備はできているでしょうか。備えはできているでしょうか。
神様と共に歩む人生を生きていく、そのような覚悟はできているでしょうか。
わたしの婆ちゃんの城尾マツ牧師は、子供の頃キリスト教に出会い、心に衝撃を受け、そして生涯を神様のために喜んで捧げて過ごし、そして穏やかに天に召されていきました。
決して平たんな人生ではなく、沢山の試練にもあいました。婆ちゃんを知る人はみんな口をそろえて「すごい人だ」と言います。
わたしは、わたしの中の欲望を捨てて、わたしの生涯を心から喜んで神様に捧げる事ができるでしょうか。
わたしの中には色々とやりたい事もあります。
きっと、それらのひとつひとつが偶像となって私の心を惑わしているのだと思います。
婆ちゃんはすごいなぁ、この日之影キリスト教会も、婆ちゃんが教会が欲しいと素寒貧なスタート地点からはじまり、神様の恵みを受けてたくさんの献金を賜り、そして建てられました。
わたしの中にはまだまだ、千人の長を立てるまえのモーセのように、1人でがんばって働いて、そしてがんばってアレもやって、コレもやって、そしてこの教会を守っていくぞ、そういう義務感のようなもので突き動かされてる部分がたくさんあるのだと思います。
それも悪くないと思います。
でも、1人では無理があります、いずれみんな疲れてしまいます。
前回もお話しました、神様、どうか助け手をわたしに送ってください。どうかわたしを助けてください。
きっとまだまだ、神様に頼らず、人間の判断で、自分の手でなんとかしようとしているわたしがここにいます。
聖書の中では、自分の判断で自分で解決しようとしたものはみな、悪い結果になっています。
明日の事を思い煩うな、今日の苦労は今日だけで十分である。
婆ちゃんがすごいのは、神様が全部助けてくださる。と全幅の信頼をよせて身を任せる事ができたからだと思います。
凄い人になろうとしなくていいよ、神様に全部任せたらいいよ。神様に頼りなさい。相談事があったら神様に相談しなさい。
きっと神様が助けてくださるよ。
神様は、わたしの弱さも知っていてくださいます。
「大丈夫。わたしがあなたを選んだのだから、わたしが責任をもってあなたを導こう」と、優しく語ってくださる方です。
わたしが整えきれなくても、主が整えてくださる。
だから今日も、主に信頼して一歩ずつ歩んでいきたいと思います。