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イザヤ書45章「人の住まう世界を神様は創られた」

人の傲慢から生まれたバベル

旧約聖書を振り返ると、人類は繰り返し神様に背き、そのたびに神様の裁きを受けてきました。

最初の人アダムとエバは、神様が禁じられた善悪を知る木の実を食べ、エデンの園から追放されました。

カインは弟アベルへの嫉妬から殺人を犯し、呪いを受けて放浪の身となりました。

ノアの時代には、人々の罪が極みに達したため、神様は大洪水によってノアとその家族以外の全人類を滅ぼされました。

それから長い年月が経ち、ノアの子孫たちは再び繁栄し、巨大な都市を築き上げました。

創世記11章1~4節

1. 全治は同じ発音、同じ言葉であった。
2. 時に人々は東に移り、死なるの地に平野を得て、そこに住んだ。
3. 彼らは互いに言った、「さぁ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代わりに、れんがを得、しっくいの代わりに、アスファルトを得た。
4. 彼らはまた言った、「さぁ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名をあげて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

この行為は、二重の意味で神様への反逆でした。

第一に、「天にも届く塔」を建設することで、神様の領域に侵入しようとする極度の傲慢でした。

第二に、「全地に散るのを免れよう」という意図は、神様が「地に満ちよ」と命じられた御心に真っ向から対抗するものでした。

神様はこの塔と町をご覧になり、深く悲しまれました。

当時の世界では、全人類が一つの言語を共有していました。

そこで神様は、彼らの言語を混乱させ、相互の意思疎通を不可能にされました。想像してみてください——昨日まで普通に会話していた隣人が、突然理解不能な言葉を話し始める光景を。

結果として、人々は言語グループごとに分かれ、世界各地に散らばっていきました。

彼らが建設を断念したその都市は、ヘブライ語で「混乱」を意味する「バベル」と名付けられました。

これは、神の領域に到達し、永遠の名声を得ようとした人間の傲慢に対する、神様からの厳粛な審判でした。

現代のバベル

現代の日本もまた、深刻な課題に直面しています。地方部では長年にわたって人口減少が進行し、都市部への人口集中という過疎化現象が社会問題となっています。

若い世代は次々と故郷を離れ、高齢者だけが残される地域が増え続けています。

これらの高齢者は、先祖から受け継いだ貴重な土地を何世代にもわたって管理し、山林や森林、河川の生態系を守り続けてきました。

しかし、都市部に移住した若者たちの大多数は故郷に戻ることなく、結果として後継者のいない山林が急速に増加しています。

高齢化により管理が困難になった山林は荒廃が進み、固定資産税の負担だけが残り、買い手もつかない厄介な資産と化しています。

このような状況下で、外国資本による土地買収が加速度的に進行しました。

しかし、これらの投資家の多くは、従来の土地管理システムを継承することなく、森林を皆伐して山肌を露出させ、大規模な太陽光パネル設置事業を展開しました。

地震や自然災害が頻発する日本の地理的特性を軽視した、環境影響評価が不十分な開発により、設備の早期損壊や太陽光パネルからの有害物質漏出、無計画な森林伐採による地盤軟化、さらには地滑りや土砂災害の発生事例が各地で報告されています。

この現象は、日本の国土特性と自然環境を無視し、短期的な経済利益を優先する人間の傲慢な行為の現れだと言わざるを得ません。

この世界には意図がある

ここで、イザヤ書に記された神様の御言葉に注目したいと思います。

イザヤ書45章18~20節

18.天を創造された主、すなわち神であって、また地をも造り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた主はこう言われる、「わたしは主である、わたしのほかに神はない。
19.わたしは隠れたところ、地の暗いところで語らず、ヤコブの子孫に『わたしを尋ねるのはむだだ』と言わなかった。主なるわたしは正しい事を語り、まっすぐな事を告げる。
20.もろもろの国からのがれていた者よ、集まってきて、共に近寄れ。木像をにない、救うことのできない神に祈る者は無知である。

天地を創造された神様は18節で「いたずらにこれを創造されず」と宣言されています。

「いたずらに」とは一体何を意味するのでしょうか?これは、神様が世界を無目的に、無秩序に創造されたのではないという、極めて重要な神学的宣言です。

「いたずらに」は「むなしく」とも翻訳され、ヘブライ語では「トーフー」と記されています。この語は創世記1章2節でも使用されており、「地は形なく、むなしく…」と記述され、「混沌」「空虚」「目的を欠いた状態」を表現しています。

この箇所から明らかになることは

  • 神様は世界を無目的に創られたのではない
  • 神様は混沌や空虚を放置するお方ではない
  • 神様は人間が住み、神様と共に生きる場所として地を整えた

この世界は偶然の産物ではありません。神様は明確な目的と計画をもって万物を創造されました。

神様は私たち人間を愛し、関係を築き、共に歩むために世界を創造されたのです。

当然、私たちの存在にも明確な目的があります。

私たちの人生は無意味でも偶然でもなく、神様によって必然性をもって計画され、この世に送り出されたのです。

19節で神様は「わたしは隠れたところや暗いところで語らない」と宣言されています。

イザヤ書45章15節では「まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である」と、異邦人の視点が記されていますが、これは神様と人間の認識の違いを示しています。

神様は決して隠れておられるのではありませんが、人間の霊的な目が曇っているため、神様が見えないように感じられるのです。

見えない神様を信じる信仰——これこそが私たちに強く求められているものです。

地を従わせよ

創世記1章28節

28.神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」

この創世記の神の命令の中で、特に重要な意味を持つ二つの動詞があります。「地を従わせよ」と「治めよ」です。

ヘブライ語では「カーバシュ」(地を従わせよ)と「ラーダー」(治めよ)と記されています。

この神様の命令は、自然界に対する人間の根本的責任を明確に規定しています。

神様が創造された自然環境は、人間による適切な管理と世話を前提として設計されているのです。

換言すれば、自然は完全に放任されたままで最適に機能するものではなく、人間の知恵ある関与によって初めて真の美しさと機能を発揮するよう計画されているのです。

多くの方が幼少期に、学校の遠足で山登りを体験されたことでしょう。

木漏れ日が優しく差し込む美しい山道を歩き、山頂でお弁当を広げ、清涼な自然に囲まれて一日を過ごす——そのような「自然」との美しい思い出をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

しかし、その風光明媚な自然景観の背後には、実は人間による綿密で継続的な管理作業があります。草刈り機による雑草の除去、登山道の整備と維持、木々の間伐による適度な採光の確保、生態系バランスを考慮した森林環境の保全——これらすべてが人の手によって丁寧に行われているのです。

「それは人工的な環境であり、真の自然ではない」と異議を唱える方もいらっしゃるかもしれません。

確かにその指摘は一理あります。

しかし、人間の管理が全く及ばない原始の自然は、私たちの想像をはるかに超えて過酷で、時として生命を脅かすほど危険な側面を持っています。

管理を放棄された森林では、人の背丈を遥かに超える雑草が無秩序に繁茂し、過密に成長した樹木によって日光が完全に遮断され、人が立ち入ることすら不可能な暗黒の世界が形成されます。

朽ちた倒木が累積し、有毒植物や危険な生物の絶好の生息地となることも珍しくありません。

近年深刻化している放置竹林問題を具体例として検証してみましょう。

かつては建築資材やタケノコ栽培のために計画的に植えられた竹林が、管理体制の放棄により驚異的な速度で周辺地域に拡大侵食しています。

竹は最盛期には一日最大1メートルという驚異的な成長速度を示し、地下茎ネットワークによって急速に勢力圏を拡張します。
しかし、竹の根系は地表から僅か30センチ程度の浅い層にしか達しないため、集中豪雨時には竹林全体が滑落する土砂災害を引き起こす深刻な危険性が専門家により指摘されています。

また、人工林の管理放棄も極めて深刻な問題となっています。

戦後復興期に大規模植林されたスギやヒノキの森林が、間伐等の必要な手入れを失うと極度の過密状態に陥り、林床への日光到達が完全に阻害されます。

その結果、下層植生が消失し、土壌が著しく劣化し、豪雨時には表面浸食や大規模土砂崩れが発生しやすい脆弱な環境に変化するのです。

2019年の台風15号では、管理放棄された山林から流出した膨大な量の倒木が、千葉県全域の電力供給システムに壊滅的な被害をもたらし、復旧作業を長期化させる主要因となりました。

このように、神様が創造された自然は確かに素晴らしい恵みですが、それは人間による適切な管理と調和的な協力があって初めて、真の機能を発揮するよう設計されているのです。

「地を従わせよ、治めよ」という神様の命令は、決して自然に対する横暴な支配や無制限な搾取を意味するものではありません。

それは、良い羊飼いが羊の群れを慈愛をもって守り導くように、熟練した庭師が植物一つ一つを丁寧に手入れするように、愛と知恵と責任感をもって自然を世話し、管理する神聖な使命を表現しているのです。

自然と共に生きてきた日本

日本という国は、農民たちが何世代にもわたって山林や土地を大切に受け継ぎ、計画的な木材伐採と植林、定期的な草刈りと道路整備を通じて、美しく豊かな自然環境を維持し続けてきました。

彼らは神様が創造された自然を深く愛し、時として厳しく立ち向かってくる山や海の力と真摯に向き合い、秩序ある管理システムを構築して、美しい自然遺産を次の世代へと確実に継承してきたのです。

神様の意思に沿わない管理は傲慢になる

しかし、「すべては自分の所有物だ」「ここで一儲けしてやろう」といった利己的で強欲な動機で自然をコントロールしようとする行為は、極めて傲慢な思考であり、神様から委託された自然と生命を大切に育てようという信仰心と謙遜さに基づく態度とは正反対のものです。

自然は決して人間の私有財産ではありません。それは神様の所有物として私たちに委託されており、私たちには忠実な管理者として仕える重大な責任があるのです。

山林を管理する農民が減少しつつある現在、次第に神様の御心に反する自然との関わり方によって、日本社会にも深刻な歪みが生じているのかもしれません。

離農者の増加、高齢農家が最後の世代となる現実、自然環境の守り手の消失——これらはすなわち、神様が定められた自然管理システムの担い手が失われつつあることを意味します。

やがて私たちは、混沌状態に逆戻りした自然の破壊的な力によって滅ぼされてしまう可能性さえあるのです。

山林や河川は単なる経済資源ではありません。それらは神様の御業を雄弁に物語る生きた証人なのです。

私たちは神様のもとに立ち返り、神様から委託されたこの貴重な自然環境を生かし、そして次世代のために保護していかなければなりません。

私欲のために自然を貪り取ることがないよう、私たちの心を正しく保持し続けなければならないのです。

コロサイ人への手紙3章5節

5.だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

聖書は明確に宣言しています——貪欲は偶像礼拝そのものなのです。

イザヤ書24章5節

5.地はその住む民の下に汚された。これは彼らが律法にそむき、定めを犯し、とこしえの契約を破ったからだ。

これは、自然環境を搾取し、神様が定められた秩序を破壊した結果として、「大地が荒廃し、その住民も裁きを受ける」という厳粛な警告なのです。

希望への招き

私たちの住む日之影には、祖父と祖母が守り続けてきた山があり、栗の木があり、畑があります。しかし、今は天に召されてこの地上にはいません。

母も祖父母の後を継いで山を守り、畑を耕し、そこから神様が与えてくださる食べ物を得て生活しています。

母もやがて神様のもとへ召され、最終的には私が残ることになりますが、私の後にはもう誰もいません。

このままでは何が起こるでしょうか?日本の自然を守る農民たちが消失し、人手不足を理由に海外から無秩序に人々が流入し、先祖代々守り抜いてきた山林や自然環境が破壊の一途を辿ることになるでしょう。

私たちは今、創造の秩序を回復する神聖な使命に立たされています。

砂漠化が進む山林、略奪される海洋資源、崩壊していく社会システムの中で、神様は再び「耕し、守る者」を切実に求めておられます。

人間の力や努力だけでは、どうにもならない問題が本当にたくさん存在します。

イザヤ書45章22節

22. 地の果てなるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。

もうね、最後はわたしだけ残っちゃうよね、どうしようかな、困っちゃったね。

って途方にくれることもあります。でも、絶望という気持ちはこれっぽっちもありません。

わたしのお母さんは、この教会のために「どうか良い助け手を送り届けてください」って神様にお祈りしてました。

そしたらなんと、色々あってわたしが大阪からこの日之影に移住してきました。

お母さんにとっての助け手として、神様がわたしを送り込んでくださったんですね。

だから、わたしも「どうか良い助け手をあたえてください」と、神様にお祈りしたいと思います。