88bd659b899a23d757de01dc67ed0045
イザヤ書45章「わたしのほかに神はない」
予言者イザヤとその時代背景
イスラエルの民は、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫として神に選ばれた民でした。
彼らはかつてエジプトで奴隷となりましたが、モーセを通して神に救い出され、約束の地カナンへと導かれました。
しかし、神に祝福されて栄えたのち、彼らは次第に神から離れ、偶像を拝むようになってしまいます。
その結果、イスラエルは二つの国に分裂し、北の「イスラエル王国」と南の「ユダ王国」となりました。
北イスラエルは神の警告に耳を傾けず、偶像礼拝をやめなかったため、ついにはアッシリアによって滅ぼされてしまいます(紀元前722年)。
預言者イザヤは南ユダ王国で活動していた人物で、この北王国の滅亡を目の当たりにし、南ユダの民にも神に立ち返るようにと強く呼びかけました。
イザヤが語った言葉の多くは、当時の人々に対する警告であると同時に、やがて起こるバビロン捕囚と、その後の回復を見据えた預言でもあります。
とくにイザヤ書45章の後半には、バビロンに捕らえられた後のイスラエルの民に向けた、神からの慰めと励ましの言葉が記されています。
神様は見放すのではなく、異邦人の王すら用いて、イスラエルを回復へ導くと約束されるのです。
イザヤと時代の流れ(簡単な年表)
- 紀元前740年ごろ イザヤ、預言活動を開始(ウジヤ王の死の年)
- 紀元前722年 北イスラエル王国、アッシリアにより滅亡
- 紀元前690年ごろまで イザヤ、南ユダのヒゼキヤ王の時代まで活動
- 紀元前586年 南ユダ王国、バビロンによって滅ぼされ、捕囚される(バビロン捕囚)
霊的に服従する異邦人
イザヤ書45章14節
14.主はこう言われる、「エジプトの富と、エチオピヤの商品と、たけの高いセバびととは、あなたに来て、あなたのものとなり、あなたに従い、彼らは鎖につながれて来て、あなたの前にひれ伏し、あなたに願って言う、『神はただあなたと共にいまし、このほかに神はなく、ひとりもない』」
この節は、イザヤ書の中でも特に象徴的なひとつのクライマックスです。
それは、これまで神に逆らい、偶像を拝んでいた異邦の民たちが、ついにはイスラエルの神こそ唯一の神であると認め、服従するという驚くべき逆転の預言です。
登場する「エジプト」「エチオピヤ(クシュ)」「セバ」は、いずれも当時の強大な異邦の国々でした。
エジプトとエチオピヤは、軍事的にも文化的にも卓越した勢力を誇り、セバびとは、現在の南アラビアまたはアフリカ東部の交易国家とされ、豊かな富と誇りを持つ「高貴な異邦人」の象徴とされていました。
そんな彼らが、イスラエルの前に鎖につながれて来るとは、どういう意味でしょうか?
これは単なる戦争の勝敗ではなく、霊的な支配の逆転を表しています。
彼らは「神はただあなたと共にいまし、このほかに神はない」と告白し、自らの偶像を捨て、心から主の前にひれ伏すようになるのです。
エジプトといえば、イスラエルの民を奴隷として扱い、神をも恐れなかった高慢な国。
その王は自らを神とさえ称していました。
そんな国が、神の民に頭を下げ、唯一の主を礼拝するようになる――
それはまさに、神の栄光が世界を圧倒する日が来るという約束です。
イザヤは、この希望の光をイスラエルの民に告げています。
今は苦しみの中にあっても、最後にはすべての民が真の神を認める日が来る。
だから、恐れずに信じなさい。
神の言葉は、必ずその通りになるのだから――
隠れてみえる神様
イザヤ書45章15節
15.イスラエルの神、救い主よ、まことに、あなたは、ご自分を隠しておられる神である。
16.偶像を造るものはみな恥をおい、はずかしめをうけ、ともにあわてふためいてしりぞく。
ここでは、異邦人たちの口から、深い神認識が語られています。
「あなたは、ご自分を隠しておられる神である」――
この言葉には、ある種の畏れと感嘆、そして気づきが込められています。
神様はたしかに働いておられる。
この世界の背後で、歴史を動かしておられる。
今もわたしたちの人生の中に、素晴らしい恵みや導きを与えてくださっている。
でもその姿は、はっきりと見えるわけではない。
神様は沈黙しているように見え、隠れておられるように感じる――。
それは、神様が存在しないという意味ではありません。
むしろ、人間の目には見えずとも、確かにそこにおられるという、信仰の深みの告白です。
この感覚は、わたしたちにも馴染みがあります。
祈ってもすぐに答えが見えないとき、苦しみの中にあるとき、神様が本当におられるのか、どこにおられるのか、わからなくなることがあります。
でも、イザヤは言います。
「偶像を造るものは恥を負う」と。
つまり、人の目にわかりやすく作られた“神もどき”――
見た目が派手で、手で触れられるような偶像は、最後には意味を失い、砕かれていくというのです。
神様は、人間の浅はかな期待通りの形では現れないかもしれない。
けれども、本物の神は、確かにそこにおられ、沈黙の中にも働いておられる方なのです。
どうか覚えておいてください。
「神は隠れておられるように見えても、決して不在ではない」
それが、わたしたちの信仰の土台です。
偶像を造るものは辱めをうける
イザヤ書45章16節
16.偶像を造るものは皆恥をおい、はずかしめをうけ、ともに、あわてふためいて退く。
17.しかし、イスラエルは主に救われて、とこしえの救いを得る。あなたがたは世々かぎりなく、恥を負わず、はずかしめをうけない。
この箇所は、イザヤ書45章のメッセージの核心を突いています。
「唯一の神」以外のものに頼ることは、最後にはむなしくなる。
偶像を造り、それに心を向けた者は、やがて恥と混乱に包まれて退いていく――
しかし、主に信頼する者は決して恥を見ることがない。
ここでの「偶像」とは、単なる彫像や神棚のことではありません。
本質的な問題は、人間が自分の手で作ったもの、自分の考え、自分の信念に「神の座」を与えてしまうことにあります。
優しい人、立派な人でも…
先日、私の叔父が亡くなりました。
葬儀は住職さんがお経を唱え、丁寧に見送ってくださいました。
私は泣きながら、見送ってきました。
そこにおられた方々、そしてお経をあげる住職さんも、とても丁寧で、穏やかで、人々の心に寄り添うような振る舞いをされていました。
「人を慰める」という意味では、本当に立派で、尊敬に値する方々でした。
でも、ここでひとつの疑問が浮かびます。
そのような立派な人々も、「偶像を拝む者は恥を受ける」と言われるのでしょうか?
答えは簡単ではありません。
しかし、聖書はこう教えています。
行いの善悪ではなく、「神様との関係」
聖書が語る救いの根本は、「どれだけ善い行いをしたか」ではなく、「神様とどう関係を持っているか」にあります。
マルコによる福音書に登場する「金持ちの青年」の話がそれをよく表しています。
マルコによる福音書10章17~22節
17.イエスが道に出ていかれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」
18.イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
19.いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」
20.すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。
21.イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
ここで、イエス様がおっしゃったことは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え」なんですね、つまり、永遠の生命を欲しいと思ったこの人は、住職さんのような、人として立派な人でした。
しかし、聖書にはこう書かれています。「わたしに従ってきなさい」と、子なる神様である救い主、イエス・キリストに従う事が大切なのです。
つまり、立派な生き方をしていても、救いは「神との関係」から始まるということです。
偶像礼拝の本質
おそらくきっと、こんな反論がくるかもしれません
「立派なことをしているなら良いじゃないか、唯一の神様とやらがやさしいのなら、それくらい多めにみてくれてもいいだろう」
まさにそのとおりです、そして、ここにこそ偶像礼拝の根源的な問題があると聖書には書かれています。
どうして「立派なことをしているのだから、それで良い」と思ってしまうのでしょう。
それは、人間の目から見て「善い行い」が「神様との関係」においても正しいと錯覚してしまうからです。
- 「親切にしている」
- 「奉仕をしている」
- 「人に尽くしている」
とても素晴らしいことです。
でも、それが「創造主なる神様と無関係でも良い」という考えにすり替わるとき、それは神様から見ると「偶像礼拝」となってしまいます。
エペソ人への手紙2章8~10節
8.あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自信から出たものではなく、神の賜物である。
9.決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
10.わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えてくださったのである。
救いは、恵みと信仰によるものであって、人間の努力や立派さによるものではない。
これは、決して人間の善意や努力を否定するものではありません。
むしろ、良い行いも、神との関係に立ったところで初めて本当の意味を持つということです。
偶像礼拝の本質的な問題
偶像礼拝とは単に「像を拝む」ことではなく「自分の考えで作り出した神を信じること」つまり、
- 「この神様なら、私のことを良いって言ってくれる」
- 「この神様なら、私が善人でさえあれば、信じなくてもいいって言ってくれる」
という考えを持ち、それを神の座に置くことが、まさに偶像礼拝なのです。
神は「隠れている」ように見えるが…
- 人は目に見えるもの、分かりやすい神、都合の良い神を作りたがります。
- でも、真の神様は人の思い通りにはならないし、すぐには見つけられない。
- だからこそ神様は「隠れている」ように思えるのです。
たとえいま、偶像を拝んでいても、人間的にどんなに立派でも、どんなに間違っていても、神様はその人がご自身と向き合うことを望んでおられます。
わたしたちは、自分を肯定してくれる神を作りたくなります。でも、真の神様は、私たちの思い通りにはならない神様です。
それでも、その神様は、私たちの弱さと罪を知りつつ、尚も、愛し、救おうとしておられる方なのです。
神様は「間違っていた人」にこそ手を差し伸べられる神様です。神様は偶像に祈ってしまった人々に「よく来たね」「こちらへおいで」と招かれる優しい神様です。神様はわたしたちを愛しておられます。間違ってしまっても断罪はされません。忍耐強く神様に立ち返るのをずっと待っておられます。
イザヤ書45章21節
21.あなたがたの言い分を持ってきて述べよ。
また共に相談せよ。
この事をだれがいにしえから示したか。
だれが昔から告げたか。
わたし、すなわち主ではなかったか。
わたしのほかに神はない。
わたしは義なる神、救主であって、
わたしのほかに神はない。
神様は怒って「文句あるなら言ってみろ!」と言ってるわけではありません。
むしろこう言っておられます。
神様は相談に乗ってくださる神様
「あなたの考えがあるなら、それを私に言いなさい。相談があるなら、遠慮せず持ってきなさい」
つまり、神様は人間の声を聞く神様です。
驚くような言葉です。神様が「人間と相談する」と言うなんて、すごいことです。
「私が語っていることと、あなたの思っていること、比べてみなさい。他の神々とわたしと、どちらが救い主か、よく考えてみなさい。」
きっと、このように思っていらっしゃると思います。
自分で全部決めないこと、神様と相談して決めること。これはとても大事なことです。
ヤコブは自分の考えで兄エサウを欺き、リベカの考えで父を欺きました。神様の言葉通り、兄は弟に仕えることになりましたが、弟は兄から逃れ、叔父に騙され、2人の妻の間で板挟みになり、家族と遠く離れて暮らす苦しみを味わいました。
神様は優しく「さぁ、わたしに話してごらん」と招いてくださっています。
神様に自分の考えを語り、そして、神様に導いてもらえるよう、お祈りして生きていければと思います。
お祈りいたします。