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出エジプト記17章「あなたの隣の助け人」

イスラエルの旅路

イスラエルの旅は、エジプトのゴセンの地──ラメセスから始まりました。そこからスコテ、さらにエタムへ進み、神の命により引き返して、ビハヒロテの前、バアル・ゼフォンに宿営します。

ここでエジプト軍をおびき寄せ、神様の奇跡によって海が二つに割れ、乾いた紅海を渡って、シュルの荒野へと進んでいきます。

そして、苦い水を見て「これは飲めない」と民がつぶやいたとき、神様は水を甘く変えてくださった──それがメラの地でした。そこからオアシスのエリム、さらにシンの荒野へと進み、ここでも再び民は「食べ物がない」とつぶやきます。しかし神様は、夕には肉(うずら)を、朝には天からのパン、マナを与えてくださいました。

ここで地図を見てみましょう。イスラエルの民が宿営していた「ビハヒロテの前」、ここが──神様が海を二つに割って道を開かれた奇跡の場所です。

こうして地図を俯瞰してみると、一番渡る距離が短いポイントが選ばれていることがわかります。聖書学者の研究によると、約5キロメートル。決して歩いてすぐという距離ではありません。

しかも、当時のイスラエルの民は、およそ100万人以上の大集団。さらに荷物や家畜を連れての移動でしたから、たった5キロとはいえ、渡りきるのに半日から一日近くかかったことでしょう。

その地点は、エジプト軍から見れば、まさにイスラエルの民が袋小路に閉じ込められたかのように見える絶好の追撃チャンス。けれど──その場所こそが、神様があらかじめ選んでおかれた”奇跡の舞台”だったのです。

まるで現代のシミュレーションゲームのように、神様は全体を見渡して、地形・時間・敵の動き──すべてを計算したうえで、最もふさわしい地点とタイミングで、海を割るという大いなる奇跡を行われました。

そのことが、地図や記録を手がかりにして改めて見てみると、よくわかります。

神様から与えられる困難と試される忍耐

イスラエルの民はシンの荒野で、神様から肉とうずら、そして朝ごとのパン、マナを賜るという奇跡を体験してきました。それは、彼らが何かをしたからではなく、神様の恵みによって、一方的に与えられたものでした。

そこから彼らはさらに旅を続け、エリムを過ぎて、またシンの荒野へと向かいます。そして次の宿営地、レフィディムに着いたとき──また問題が起こります。

今度は「水がない」と言って、民がモーセに詰め寄るのです。

【出エジプト記17章2節】

それで、民はモーセと争って言った、「わたしたちに飲む水をください」。モーセは彼らに言った、「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」。

この「争って言った」という表現──口語訳では丁寧に聞こえますが、実際はかなり強い口調だったと想像できます。「争い」とは、単なるお願いではなく、怒り、非難、要求が混ざった態度です。

もしかしたら、こうだったかもしれません。

「モーセ、水がないぞ!水をよこせ!」

あるいはもっと皮肉混じりに、

「モーセさん? お水……ありませんけど?」

なんて、迫ったのかもしれません。

しかし、問題はその口調だけではありません。彼らは何度も神様の奇跡を目の当たりにしてきたのです。

  • 苦い水を甘く変えられたメラの奇跡
  • 日ごとに与えられるマナとうずらの奇跡
  • 海が割れ、永遠にエジプトから解放される最大級の奇跡

それにもかかわらず、また不平を言い、今度は指導者モーセに詰め寄り、神を「試す」ような態度をとってしまいました。

この姿は、パロ王にも通じます。エジプトの王パロも、神様の奇跡を何度も目撃しながら、心をかたくなにして、ついには自分の国の長子を失うという裁きを受けました。

イスラエルの民も、神様の奇跡を何度も経験しながら、そのたびごとに不信に陥っています。

けれど、神様は違います。神様は怒って彼らを見捨てるのではなく、忍耐をもって、再び奇跡をもって応えられたのです。

これは、今を生きる私たちにも同じです。聖霊を通して語られる神様の導きがあり、何度も助けや支えを経験してきたのに

  • 病気や災難が起こると、「神様、なぜ?」
  • 思うようにいかないと、「どうして私だけ?」
  • 時には、「もう神様なんて信じない」と言ってしまうこともあります。

イスラエルの民も、パロも、そして私たちも──変わらないのです。

だからこそ、私たちは忍耐をもって、神様の救いを信じ続ける心を持たなければいけません。

神様に従い受け取る奇跡

【出エジプト記17章4節】

このときモーセは主に叫んで言った、「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。彼らは、今にもわたしを石で打ち殺そうとしています」。

「神様、助けてください!このままでは私は殺されてしまいます!」

そう叫ぶモーセに、神様はこう答えられます。

【出エジプト記17章5-6節】

主はモーセに言われた、「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。

神様は、モーセに「この岩を打ちなさい」と言われました。「ホレブの岩の上であなたの前に立つ」とも語られていますが、聖書にはそれがどのような形だったのか、詳しい説明はありません。ただ、神様はきっとモーセに、「この岩だよ」とわかるように、しるしを示してくださったのでしょう。

モーセは神様の言葉に従い、ホレブの地域にあるその岩を、手に持った杖で──

「コーン!」

と打ちました。

すると──岩が割れ、中から水が流れ出たのです。こうして、イスラエルの民たちは、渇きを癒す水を得ることができました。

この「岩から水が出た」出来事については、近年ある考古学的な仮説が注目を集めています。それは、サウジアラビア北西部の山、ジャバル・マクラ(Jabal Maqla)のふもとにある巨大な岩──通称「スプリットロック(割れた岩)」です。

この岩は、高さおよそ15〜20メートル。中央が真っ二つに割れていて、内部や周囲には、水が流れたような浸食の跡も確認されています。

現地の宣教師や一部の地質学者たちは、興味深い仮説として、
「この岩にはもともと水が蓄えられていたのではないか」
「神様はそれをご存じで、モーセに打たせて”開かれた”のではないか」
という説を唱えています。

確かに、聖書の言葉はこうです:「水がそれから出て」──「湧き出た」とも、「空から降った」とも書かれていません。

でも少し意外ですよね。神様は、何もないところから水を生み出すことだってできたはずです。マナのように、天から直接与えることもできたでしょう。「何もないところから与える」神様の力を、私たちはすでに知っているのです。

では、なぜ今回は、あらかじめ岩の中に蓄えられていた水を「開く」方法を選ばれたのでしょうか?

きっと神様は、「何を与えるか」だけでなく、「どう与えるか」にも意味を込めておられたのだと思います。

神様の奇跡は、物質的な供給だけではなく、私たちの信仰に問いかける霊的なメッセージでもあります。

例えば、

  • マナは、上から降ってくる「一方的な恵み」
  • 水は、「岩を打て」という命令に「従って行動する信仰」が必要だった

つまり、

  • マナは信仰をもって「受け取る」恵み
  • 水は信仰をもって「従って行動する」恵み

神様は、奇跡のかたちを変えることで、民の信仰を育て、導こうとされていたのではないでしょうか。

この出来事は、新約聖書にもつながっています。

【コリント人への第一の手紙10章4節】

みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。

モーセが打った岩は、やがて「打たれるメシア──キリスト」の象徴です。

  • 岩が打たれて水が出たように
  • キリストが打たれて命の水が流れ出た

水は、単なる飲み水ではありません。それは命、霊、恵みの象徴です。

神様は、今日も私たちにその命の水を注いでくださいます。しかし私たちも、荒野で滅びた大多数のようにならないように──神の恵みを軽んじず、主の御心にかなう信仰の歩みをしたいと願います。

アマレクとの戦い

【出エジプト記17章8節】

ときにアマレクがきて、イスラエルとレフィディムで戦った。

聖書は時として唐突に物語が急展開を迎えます。アマレク人がやってきて、イスラエル人たちに戦いを挑んできました。

さて、皆さん「もういいですよ」と言うまで両手を上に上げてお話を聞いていてくださいね。

アマレクは創世記36章12節で、ヤコブの兄、エサウの系図の中でエサウの孫として紹介されているのですが、どのような歴史をたどっていったのでしょうか。非常に好戦的でずる賢い民族として、ここで登場します。

【申命記25章17-19節】

あなたがエジプトから出てきた時、道でアマレクびとがあなたにしたことを記憶しなければならない。すなわち彼らは道であなたに出会い、あなたが疲れている時、うしろについてきていたすべての弱っている者を攻め撃った。このように彼らは神を恐れなかった。

それで、あなたの神、主が嗣業として賜る地で、あなたの神、主があなたの周囲のすべての敵を征服して、あなたに安息を与えられる時、あなたはアマレクの名を天の下から消し去らなければならない。この事を忘れてはならない。

つまり、彼らは割った岩の水を飲んで休息をしているときに、背後から忍び寄って、弱っている者──老人や女性、子供を狙って攻撃してきた、神様を恐れないとても卑怯な民族でした。

その後も彼らアマレク人は何度も敵対し、ユダヤ教の伝統では「神に逆らうすべての者」「神様の民を妨げる霊的存在」悪の象徴として扱われることになりました。

彼らの恐ろしいところは、イスラエルの親戚の民族でありながら、神様を知っているのに逆らうという姿かもしれません。

【出エジプト記17章9-11節】

モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。

ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。

きっと神様はモーセに「丘の頂で手を上げなさい」と仰ったのかもしれませんね。モーセが手を上げていると、その間はイスラエル人たちはアマレク人たちより強くなり、モーセが疲れて手を下ろしてしまうと形勢が逆転してアマレク人の方が強くなる。

というか、もともと戦い慣れしているアマレク人の方が強かったのでしょうね。神様の助けを得ることで強くなることができました。

皆さんどうですか、両手が辛いでしょう?もう下ろしてもいいですよ。モーセも両手がだんだん重たくなってきて、両手を上げることが出来なくなってきました。

そこで、一緒に丘の上に上がっていたアロンとホルが手ごろな大きさの石を持ってきてモーセをそこに座らせ、二人で横に立ってモーセの手を持ち上げて支えました。

こうしてモーセは日没までずっと両手が下がらなかったので、アマレク人に勝つことができました。

協力して信仰を守る

この戦いは、モーセが神様の命令に従って両手をずっと上げ続けることができるかが問われていました。

実際両手を上げてみたら、この数分間でも結構辛いのに丸一日の間続けるのはもはや拷問といってもいいくらいの辛さです。

モーセはどんなに辛くても神様の命令に従い続けなければいけなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。

モーセの兄であるアロンと、後にとても重要な仕事に就くことになるホルが協力してモーセの手を支えることで、神様の命令を守り、そしてアマレク人に勝つことができました。

この勝利は、イスラエル人が強かったからではありませんでした。全員少し前までエジプトの奴隷で、戦うことも知らないただの弱い一般人でした。

イスラエル人を導くリーダー、モーセも一人では神様の命令に従い続けることもできませんでした。

アロンとホルがモーセを助け、みんなで協力することで神様の命令に従うことができた──これがとても重要なポイントです。

この戦いは、モーセが両手を上げ続けることでアマレクに勝つことができたという話ではなく、困難な試練にあったときに二人、三人と一緒に神様に従うことで試練を乗り越えることができるということを伝えているのだと思います。

私たちは一人では生きていくことはできません。

私たちが辛いとき、困難にあったとき、一人で神様に祈ってもその境遇から脱出できないでいるときがあると思います。

そんな時は、誰かに寄り添ってもらい、一緒に神様にお祈りしてもらいましょう。

誰かが辛いとき、困難にあったとき、一緒に神様にお祈りしてあげましょう。

あなたの長い人生で、一緒に神様と共に歩んでくれる良い助け人がいてくださいますように。この教会においても、モーセを支えたアロンとホルのように、互いに祈り、支え合い、信仰の手を上げ続ける関係であれたらと思います。

城尾淳一