921e792a14e6f3bbacc1eb52ef0afb13

出エジプト記14章「なぜさけぶのか」

一行の旅路

神様はモーセにいいました。

「イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるビハヒロテの前、バアルゼボンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない。パロはイスラエルの人々について、『彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らのあとを追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉を得、エジプトびとにわたしが主であることを知らせるであろう」

最初の「ミグドルと海との間にあるビハヒロテの前、バアルゼボンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない」という箇所ですが、具体的な箇所は出エジプトのルートの研究では、紅海の北部、スエズ湾近辺あたりと推測されています。

彼らは最初はカナンへ向かうルートへ進んでいました、ゴセンの中心ラメセス、スコテときて、エタムに宿営ですね。そこからややエジプトに戻る方向で引き返してビハヒロテへと進みました。地図でいうとおそらくこのあたりになります(ここで地図を出して見せる)

ここで現代でもとても有名なモーセのエピソード、海を割るお話につながっていきます。

彼らが宿営した場所は海の前でまるで袋小路のような場所で、目的地のカナンの地に進むには海が目の前に広がっていました。

パロの頑なさ

一方そのころ、エジプトの最高指導者、エジプトの頂点に立つ王、パロがイスラエル人たちの帰りを今か今かと待っていました。

え?エジプトの人たちはイスラエル人を追い出すように解放したんじゃないの?

なんでイスラエル人たちが帰ってくると思ってるの?

そう、パロはイスラエル人たちは一時的に彼らの神様に礼拝をするためにちょっとした外出をしたと思っていました。

モーセも最初は「ヘブルびとの神がわたしたちに現れました。どうか、わたしたちを三日の道のりほど荒野に行かせ、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください」とパロにお願いしています。

パロも散々、10の災いでエジプトを打たれてしぶしぶ「まぁ、やつらの神に礼拝をささげるだけなら」と承諾したわけです。

そしてパロはエジプトを出たイスラエルびと達に偵察をつけ、きちんとエジプトへ戻ってくるのか監視していました。

三日どころではありません、おそらくこの時点で一か月くらいはたっています。

礼拝をすませて帰ってくる気配をみせずにずんずんと進行する彼ら、そして、海の横で宿営して動かなくなった、あ、これはどうやら逃げる気だな、パロの放った偵察の兵隊はそう判断しました。

報告を受けたパロは憤慨しました。

「モーセのやつ、騙したのか!?」

イスラエルはエジプトの重要な労働力です、なぜ要求をのんでいかせてしまったのか、奴らを連れ戻すぞ!

神様はパロの心を頑なにされると言いました。これは、パロの心を働きかけて頑なにしたのではありません。パロの心はもとから頑なで、神様はその心のままにふるまう事を許されましたという事です。

だから、場合によってはパロの心に神様をおそれる心が芽生え、「いや、また彼らの神から災いで撃たれてはかなわん、ほうっておけ」となる展開もありえたわけです。

しかし、残念ながら、パロはその頑なさが一層明確になり、最後は神様に打たれる道を最後まで止めることはありませんでした。

イスラエルびとの不満

パロは戦車を用意させ、エジプトの軍勢を率いて彼らの後を追いかけ、とうとうイスラエルびとが宿営するビハヒロテにたどり着きました。

エジプト軍が追ってきた事はイスラエルびと達にもわかりました。

そして、神様とモーセに文句を言い始めました。

「あなたがたの口車にのせられたせいで荒野でわれわれは死ぬんだ!」

「『我々はエジプトに仕える、放っておいてくれ』と言ったじゃないか!」

「荒野で死ぬよりエジプトで奴隷でいた方がマシだった!」

人は良い境遇にいるうちは感謝しますが、窮地に陥ると文句を言い始めます。

しかし、そんな不信に満ちた民を、神様は見捨てられませんでした。モーセを通して、信仰の言葉が語られます。

なぜさけぶのか

モーセは口々に文句を言うイスラエルびと達に向かって言いました

出エジプト記14章13節

モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らをみないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」

モーセはイスラエルの民に「黙ってみてなさい」とこう言いました。

出エジプト記14章15節

主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」

「なぜわたしにむかって叫ぶのか」

神様はこう言われました、これはモーセが神様に対して助けを求めて叫んだのでしょうか、聖書にはモーセが叫ぶ描写はありません、イスラエルの民を信仰的に励ましながら心の中で「主よ、どうか助けてください」と叫んでいたのかもしれません。

または、神様に対して文句を言うイスラエルの民に向けられたものなのかもしれません。

または「わたしが必ず助けるとどうして信じられないのか、なぜ叫ぶのか」というニュアンスなのかもしれません。

どのように解釈するとしても、ここで学ぶ事があります、わたしたちは窮地に陥った時に「神様、どうしてわたしをこんなひどい目にあわせるのですか」と不信仰な文句を言わず「どんな時も必ず神様はわたしたちを救ってくださる」と信じなければいけません。

紅海の奇跡

そして、神様は「さぁ、イスラエルの民を進み行かせなさい」と語ります。ここでつえを海にさし伸べると海が割れるので、そこへ行かせなさい。と言います。

ここで、神様がパロの心をかたくなにしてでも、10の災いでエジプトを打った事が生きてきます。

神様のご計画はイスラエルびとをエジプトから救い出すだけではなく、全ての人に対して全知全能の神様は確かに生きておられるという事を示すことも重要です。

イスラエルの指導者モーセの信仰を育てるため、イスラエルびとやエジプトびとに神様は生きておられるという事を示されるため、数々の奇跡と災いを実行されました。

モーセはたくさんの不思議をもって神様の力を目の当たりにし、神様にはできない事などないという信仰が育っていました。だから海を分けるという言葉を信じ、疑う事もなくその通りに実行しました。

モーセが手を海にさし伸べると、神様は強い東風を吹かせました。すると、海がふたつに分かれ、そこに乾いた陸地があらわれました。

こうして、イスラエルびと達は海の中を進んでエジプト軍から逃げる事ができました。

エジプト軍たちもイスラエルびと達を追って海の中へ入ってきましたが、神様は彼らの戦車の車輪を外し、先に進めなくしました。

神様は主であると知ったエジプトびと

出エジプト記14章25節

エジプトびとは言った、「われわれはイスラエルを離れて逃げよう。主が彼らのためにエジプトびとと戦う」

ものすごく冷静で説明的なセリフですが、彼らエジプト軍の中には恐怖と混乱がありました。

「逃げろ、彼らの神が相手では敵わない、イスラエルから離れろ!」

エジプトびと達がイスラエルの神様が主である事を知り、恐ろしく感じて逃げようとしたとき、

出エジプト記14章26節

そのとき主はモーセに言われた、「あなたの手を海の上にさし伸べて、水をエジプトびとと、その戦車と騎兵との上に流れ返らせなさい」

モーセが手を海の上にさしのべると、分かれた海がもどり、エジプトびとたちは一人残らず海の中に飲み込まれました。

神様の救い

イスラエルびとの命は助かり、エジプトびとは神様の手によって命をとられました。

この違いはなんだったのでしょうか

イスラエルびととエジプトびと、どちらも神様のことを侮っていました。

イスラエルの民はエジプトの軍を見ると神様とモーセに「なぜ我々を導きだしたのか」「エジプトにいた方がマシだった」と不平不満を述べます

エジプトの軍は神様を敵視し、神様の奇跡(雲の柱・火の柱)をみながら尚イスラエルに向かってきました。

どちらも神様は主であるという事実の前に心が頑なだった点では同じです。

では、何故結果が違ったのでしょうか、イスラエルは、アブラハム・イサク・ヤコブに対する神の契約の民です。

神様はご自身の約束に忠実であるために、イスラエルを救い出されました。

決して、イスラエルびと達の進行の質によるものではありませんでした。

ローマ人への手紙9章15-16節

神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。」

イスラエルが救われたのは、彼らが従順だったからではなく、神様のあわれみによるものでした。

これは、イスラエルの民は神様が一方的にいつくしみ、あわれむ対象だから救われ、わたしたちはその対象外ということでしょうか?

エジプトびとも、幾度となく「主が神様であること」を目にしましたが、心を開かず最後まで敵のままでした。

イスラエルの民も揺れましたが、最終的にはモーセの言葉に従って海の中を進みました。それは完全な従順ではなく、不完全でも「神様の導きに一歩踏み出した」信仰でした。

もし、エジプトびとの中に10の災いを体験し、雲の柱や炎の柱を見て「彼らの主こそまさに本当の神様だ」と信じて離脱してひざまずいた兵士がいたなら、神様はその兵士を滅ぼしたでしょうか?

イスラエルは契約の民だから救う、エジプトの民は契約の民ではないから滅ぼすということをしたでしょうか。

その答えは、おそらくノーです。

神様は悔い改めるものを拒みません。

この「彼らの主こそまさに本当の神様だ」と信じ悔い改める事は努力と言えるのではないでしょうか?それではローマ人への手紙の「それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。」と矛盾するのではないでしょうか。

では、悔い改めや信じることは努力なのでしょうか?表面的には「自分の決断」「自分の努力」に見えます。

・わたしたちは自分の意志で「信じよう」と思い

・「悔い改めよう」と思って、行動します

だから確かに外から見ると努力のように見えます。

でも聖書の教えはもっと深いところに根差しています

使徒行伝11章18節
「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔い改めをお与えになったのだ」と言った

ヨハネによる福音書6章44節
わたしをつかわされた父が引き寄せて下されなければ、だれもわたしに来ることはできない

エペソ人への手紙2章8-9節
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自信から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない、それは、誰も誇ることがないためなのである。

つまり、信じることも、悔い改めることも、自分の内から出た善ではなく、神様が恵みによって与えてくださったことなのです。

たとえるなら

・あなたは真っ暗な部屋にいる
・神様が灯りをつけて出口を照らしてくださいます
・あなたはそれを見て出口に向かう
・たしかに「歩いた」のはあなた。でも、光がなければ歩けなかった

信仰も同じです。
自分の意志で応答したように見えても、実は神様の憐みによってその意思も働かされたのです。

エジプトの戦車に襲われそうになったとき、イスラエルの民は不信仰な気持ちで神様にさけびました。
モーセは神様の救いを信じて助けをさけびもとめました。

わたしたちはイスラエルの民ではない異邦人ですが、神様の憐みによって救いを示す光が示されています。
神様の恵みの賜物にあずかれるよう、共に祈り、光に向かって歩んでまいりましょう。

お祈りいたします。