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出エジプト記4-6章「わたしが主である」

イスラエルの民救出プロジェクト

出エジプト記でモーセが神様にイスラエルの民を救い出すよう命じられた時代については、聖書学者や考古学者の間でいくつかの意見がありますが、紀元前13世紀頃という説が有力です。

出エジプト記の1章11節ではパロはイスラエルの民を従事させて「倉庫の町、ピトムとラメセス」を建てさせたのですが、これは現在の考古学者に発掘された「ピ・ラメセス」と呼ばれる都市が紀元前13世紀頃にものであるという研究からによるもので、特にこのころは多くの外国人労働者が国家的建設プロジェクトに従事していた証拠があったからです。

他にも色々な発掘された証拠が聖書の中の記述と一致しているのですが、そろそろ本題に入りたいのでここまでといたします。

神様はモーセにこう言いました

出エジプト記4章21節

主はモーセに言われた、「あなたがエジプトに帰った時、わたしがあなたに授けた不思議を、みなパロの前で行いなさい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、彼は民を去らせないであろう。

あなたはパロに言いなさい、『主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう』と」

ここで、神様は「イスラエルの民を救いなさい、しかし、わたしが彼の心をかたくなにする」と仰っているんですね、エジプトからイスラエルの民を救うには、パロが「うん、いいよ」って言ってくれればものすごく楽で簡単なんですね、なのに神様は「わたしが彼の心をかたくなにする」って言ってるんです。

一般人が聞いたら「マッチポンプじゃないですか、なんで神様はパロの心を柔らかくしようって言わないどころか頑なにするって言ってるんですか?」って疑問点が出てくると思うんです。

このイスラエルの民を救い出す神様のご計画は、ただ、イスラエル人を約束の地へ導くだけでは無いんです。とても良い土地を与えるだけではなく、生まれた時から罪に定められた人から救われるために神様から与えられる試練でもありました。

また、聖書に書かれている「かたくなにする」という言葉はヘブライ語の「ハザク」と言いますが、これには強くするという意味もあり、パロの元々の性質や決断を強めるという解釈もできます。つまり、パロはもとから頑なな性格であったわけです。別に温厚で素直な性格だったのを今回の試練のためにいきなり頑なな性格にしたというわけではありませんでした。

さて、モーセは兄弟のアロンとホレブの山で出会いました。

モーセはアロンに神様から語られた事やおこった出来事を話し、それから一緒にイスラエルの人たちの所で長老たちに集まってもらい、これまでの話をしました。

そして、神様からイスラエルの民をエジプトから救い出す計画を聞き、その証拠に神様から授けられたしるし、つまり杖を投げるとヘビになったり、ふところに入れるとらい病になる奇跡を見せたんだと思います。それを見て長老たちはモーセ達の話を信じました。そして、神様はエジプトに苦しめられていたイスラエルの人たちの苦しみを聞いてくれたんだと感謝して、神様に礼拝しました。

これが現代では「十戒」や「海を割るモーセ」の話で有名なモーセの率いるイスラエルの民たちのエジプトからの脱出劇の始まりでした。

これは単純なエジプトからの脱出のお話ではなく、生まれた時から罪に定められた人々が神様に対して何度も罪を犯しては悔い改め、それを何度も繰り返しながら荒野(あらの)を旅するイスラエル人たちの試練の物語でもあります。

頑ななパロ

モーセとアロンはエジプトの王、パロのもとへやってきました。

「イスラエルの神、主はこう言われました『わたしの民を去らせ、荒野で、わたしのために祭をさせなさい』と」

これは多分アロンがモーセの代わりに言ってるんでしょうね、パロの返事はこうでした。

「主とはいったい何者か。何故わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければいけないのか、わたしは主を知らない。イスラエル人を去らせはしない」

当然の対応だと思います、いきなり労働力を手放しなさいと言われて「はい」という指導者はいないと思います。

モーセたちは「ヘブルびとの神がわたしたちに現れました。どうか、わたしたちを3日の道のりほど荒野に行かせ、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、わたしたちを悩まされるからです」

さて、ここで「わたしたち」とモーセ達はいいましたが、結果的に疫病やつるぎに打たれるのはエジプト人達でした。

なぜ「わたしたち」といったのでしょうか、おそらく最初は「神様がエジプト人を襲う」と直接的な脅しにならないように外交的に柔らかい表現にしたのかもしれません。

また、当時の古代近東の世界観では国家全体が神様の裁きを受けるという考え方がありましたので、もしイスラエル人が神様に従わなければ、その土地に住む全ての人々(エジプト人とイスラエル人両方)が裁きを受ける可能性があるという理解があったのかもしれません。

パロは「モーセとアロンよ、あなたがたは、なぜ民に働きをやめさせようとするのか。自分の仕事に戻れ。見よ、今は土民の数は多い。しかも、あなたがたは彼らに労役を休ませようとするのか」

そういって、モーセとアロンを追い返しました。

モーセとアロンの最初の交渉は決裂に終わりました。

モーセとアロンが帰ったあと、パロは現場監督達にこう命じました

「あなたたちは、レンガをつくるための藁を、もはや、いままでのように、この民に与えてはならない。彼らに自分で行って、藁を集めさせなさい。また前に作っていた、レンガの数どおりに彼らに作らせ、それを減らしてはならない。彼らは怠け者だ。それだから、彼らは叫んで『行ってわたしたちの神に犠牲をささげさせよ』と言うのだ。この人々の労役を重くして、働かせ、偽りの言葉に心を寄せさせぬようにしなさい」

パロは、モーセとアロンの言葉と、彼らの神様を信じていませんでした。それどころか、イスラエル人たちが仕事を怠けるための口実として、モーセとアロンを使ってあのような事を言わせたのだと思っていました。

当時のレンガはナイル川の土や泥に、藁などの植物繊維を強化剤として混ぜ込み、砂を適度に混ぜて水でこねたあと乾燥させるそういうレンガでした。現代のように粘土で作って焼いて作らないので強度は劣りますが、断熱効果があり、エジプトのような乾燥した気候ではとても長持ちするとても優れたものでした。

レンガをつくるために藁はとても大切な材料です、いままでは効率化のためにエジプト人が材料である藁をくれましたが、今度は自分で調達しなければいけません。仕事量が増えたのにノルマは変わらず、イスラエル人は疲弊していきました。

「なぜ前と同じようにレンガが作れないんだ」

そう言われてイスラエル人はエジプトの監督に打たれてしまいます。

王様パロに「これは流石に無理です、レンガが今まで通り作れないのはあなたがたエジプト人にも責任があります」と言っても、「黙れ、お前たちはなまけ者だ、なまけ者だ、それだから『行って主に犠牲をささげさせよ』と言うのだ、さぁ、働け、藁はやらんが今まで通り仕事をするんだ」と追い返されてしまいました。

なんということだ、モーセとアロンのせいで大変な事になってしまった。

イスラエルの人たちの中でモーセとアロンに対する不満が高まっていきました。ちょうどその時、イスラエルの人たちに会おうとやってきたモーセとアロンに出会いました。

「おまえたちはなんという事をしてくれたんだ、おかげでパロの機嫌を損ねて我々はそのせいで殺されそうになっている」

そう言われてしまい、モーセたちは何も言えませんでした。

モーセは神様に言いました。

「主よ、なぜあなたはこの民をひどい目に合わせるのでしょうか、何故わたしたちをつかわされたのでしょうか。わたしがパロにあなたの名前によって語ってから、パロはますますイスラエルの民を苦しめています、主よ、あなたはイスラエルの民を少しも救おうとしてくださいません」

これは、最もな意見に見えるかもしれませんが、モーセの不信仰でした。あれだけ神様からの奇跡を目の当たりにしながら神様に対して疑いの心をもっており、まだ完全に信じ切れていません。

きっと、最初の交渉でうまくいくと思っていたのでしょう、断られるにしても、まさかパロが重い労役を更に課すとは思ってもいませんでした。

若い頃エジプトで教育を受けていた彼ですが、自分自身でも口下手という通り社会的に揉まれてるわけでもありません。

最初に断られたとしても「最初のこの反応はあたりまえだろう、パロは報復してくるかもしれないが、神様がきっと助けてくださる」と信じていなければなりませんでした。

もともと、イスラエルの民はヤコブの子、ヨセフが神様の導きでエジプトを救う事になり、当時のエジプトの王様パロに歓迎されてエジプトのゴセンの地に住むようになりました。

しかし、彼らは神様の働きで7年間の大飢饉から救われた事を伝え残さず、新しい今のエジプトの王パロは「わたしは主など知らない」と言わせてしまい、奴隷として思い労役を課せられてしまいました。

いずれは神様の約束された地カナンへ移り住む事になったのでしょうが、彼らが400年前から神様から救ってくれた事を伝え広めていれば、エジプトでの彼らの扱いもまた違った事になっていたのかもしれません。

神様の試練でエジプトの王パロの長男も死ぬことになってしまった遠い原因は当時のイスラエルの民にもあったのかもしれません。

神様の奇跡

神様はモーセに言いました「今、あなたは、わたしがパロに何をしようとしているかを見るでしょう。すなわちパロは強い手にしいられて、彼らを去らせるであろう。否、彼は強い手にしいられて、彼らを国から追い出すであろう」

モーセは再び、イスラエルの人たちのところへ行って神様の言葉を伝えましたが、パロの課した重たい労働で心が傷ついていたので、話を聞いてもらえませんでした。

神様はモーセに「パロのところへ行きなさい」と言われました。

すっかり自信を失っていたモーセは「イスラエルの人たちでさえ話を聞いてくれないのに、くちびるに割礼のないわたしの言う事をパロが聞き入れるとは思えません」と言いました。

くちびるに割礼がないというのは、ここでは古代の比喩的な言い方で、言葉の不自由さがあるという事を表しています。モーセは言語障害があったのかもしれません、自信を失って雄弁さがなかったのかもしれません、または神様の前で謙虚さを表してたのかもしれません。

神様はモーセに言いました。

「見よ、わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする。

あなたの兄弟アロンはあなたの予言者となるであろう。あなたはわたしが命じることを、ことごとく彼に告げなければならない。そしてあなたの兄弟アロンはパロに告げて、イスラエルの人々をその国から去らせるようにさせなければならない。

しかし、わたしはパロの心をかたくなにするので、わたしのしるしと不思議をエジプトの国に多く行っても、パロはあなたがたの言うことを聞かないであろう。

それでわたしは手をエジプトの上に加え、大いなるさばきをくだして、わたしの軍団、わたしの民イスラエルの人々を、エジプトの国から導き出すであろう。

わたしが手をエジプトの上にさし伸べて、イスラエルの人々を彼らのうちから導き出す時、エジプトびとはわたしが主であることを知るようになるであろう」

「あなたをパロに対して神のごときものとする」というのは、神様はモーセに神様の権威を与えるということです。

そして、言葉が不自由で自信のないモーセのために、アロンをモーセの代弁者としてたててくださいました。

神様の言葉は全てアロンが代わりに語りますが、神様の権威はモーセに与えられています。

何故、人々に語るアロンではなく、自信がなく弱気なモーセなのでしょうか、これは、モーセに与えられた神様のご計画だったからです。神様は力のあるものではなく、力のないものが選ばれます。

力のあるものだと「なんだ、あたりまえじゃないか」となりますが、神様の力を示すためには力のないものが必要だからです。

神様は、わたしたち、力のない、弱いものを選ばれ、助けてくださいます。

ふたたび、モーセとアロンがパロのところへ行った時、パロはこういいました

「おまえたちが神様につかわされたという証拠を見せてみろ」

そこで、モーセはアロンに言いました

「あなたの杖をパロの前に投げてみなさい」

アロンが杖を投げてみると、その杖はヘビに変わりました。

「どうですか、これで信じていただけますか?」

モーセが語るとパロは

「そんなもの、我々の魔術師にもできることだ!!」

パロはエジプトの魔術師を呼び寄せて同じことをさせてみると、なんと、魔術師の投げた杖もヘビに変わりました。

しかし、魔術師たちのヘビはアロンに飲み込まれてしまいました。

結局パロはモーセ達の言葉に耳を貸しませんでした。

翌日、パロはナイル川のほとりにいると、モーセ達に出会いました。

モーセは言いました。

「ヘブルびとの神、主がわたしをあなたにつかわして言われます、

 『わたしの民を去らせ、荒野で、わたしに仕えるようにさせよ』と。

しかし今もなお、あなたが聞き入れようとされないので、主はこう仰せられます

『これによってわたしが主であることを、あなたは知るでしょう。みよ、わたしが手にあるつえでナイル川の水を打つと、それは血に変わるであろう、そして川の魚は死に、川は臭くなり、エジプトびとは川の水を飲むことをいとうであろう』

と」

そして、今度はアロンに言いました。

「あなたのつえを執って、手をエジプトの水の上、川の上、流れの上、池の上、またそのすべての水たまりの上にさし伸べて、それを血にならせなさい。エジプト全国にわたって、木の器、石の器にも、血があるようになるでしょう」

アロンは、自分の杖でナイル川の水を打つと、川の水がことごとく血に変わってしまいました。

川の一部ではなく全体が血に変わり、川が臭くなり、飲めなくなってしまいました。

これはもう、ものすごく大事件です、飲み水がなければ生きていけません。しかし、パロはエジプトの魔術師も同じように水を血に変えてしまったので、モーセ達のいうことを聞き入れませんでした。

何故、神様は神様を信じさせるための不思議なしるし、ヘビに変わる杖や、血に変わる水の奇跡をエジプトの魔術師たちにも許したのでしょうか。

神様は、奇跡を段階的に強いものにしていき、神様の力を示されるようにしました。

最初の奇跡はエジプトの魔術師達にもまねができるようなものでしたが、後になるほど彼らにも真似はできませんでした。

また、最初のヘビの奇跡も彼らのヘビを飲み込み、力の差を示されました。

この後も、神様からの警告から災いがエジプトを襲い、パロが悔い改めたように見せかけてはイスラエルを開放しないという事が何度も続きます。

先ほどのナイル川が血に変わる災いや、無数のカエルがエジプト中に溢れる災いは魔術師たちもまねる事ができましたが、そのあとの蚋(ぶよ)がエジプト中に広がる災いは真似ができませんでした。

害虫の大群がエジプトを襲った時はゴセンの地には被害がなく、イスラエルとエジプトが区別されました。

エジプト中の家畜疫病で死んだ時もイスラエルの家畜には影響がありませんでした。

人と家畜に腫物ができる災いは魔術師たちもパロの前に立つことすらできなくなりました。

破壊的な雹が降り注ぐ災いは信じなかった人たちの家畜が全て死に絶えましたが、イスラエル人の地は守られました。

いなごの災いはついにパロの家臣たちもパロに降参するよう勧めました。

闇の災いではエジプト全土が昼の時も夜の時も暗闇に覆われましたが、イスラエル人おいるところには光がありました。

そして最後の災いではエジプト中の全ての長男が死ぬことになりました。

これらの災いは徐々に深刻さが増していき、イスラエル人は守られるという明確な区別がつけられるようになり、そしてどの災いも、エジプトで信仰されている様々な偶像に対する挑戦という形で行われていました。

血の災いはエジプトの偶像「アピ」
かえるの災いは「ヘケト」
いなごの災いは「収穫の神」
闇の災いは「ラー」
最後の災いは神の子とされていたエジプトの「パロ」自信に対してでした。

神様の災いはただ、エジプト人を苦しめるというだけではなく、神様は確実に生きておられる、そして、明確な意思をもって、イスラエルの人々を、わたしの長子を開放させ、そして、主なる神様に仕えさせなさい。という意思が込められていました。

神様の導きと私たちへの招き

出エジプト記の物語は、何千年も前の出来事ですが、今日の私たちの生活にも深く関わるメッセージを持っています。

パロの心の頑なさは、私たち自身の中にも見られることがあります。日々の忙しさや様々な誘惑の中で、心の静かな声に耳を傾けることを忘れてしまうことはないでしょうか。

旧約聖書時代は父なる神様が直接、人々に語り掛けていた時代です。

新約聖書時代は子なる神様であるイエス様が人々に語り掛けていました。

そして現代は、聖霊様がわたしたちの心に語り掛けています。

心の中になにかザワザワした、このままでいいんだろうか?これはよくないんじゃないだろうか?

神様は、わたしたちの心に聖霊様を通してやんわりと警告を送ってこられます。

「そっちじゃないよ、偶像に心を捕らわれてはいけないよ、主である私の方へ帰ってきなさい」

聖書の時代から何千年もたち、文化や生活習慣が大きく変わりましたが、聖書の中の教えは変わっていません。

人は、神様から離れて生きていく事はできません。

神様から離れてしまえば心が荒み、罪に塗れ、そして待っているのは滅びです。

心や力が強いうちは「神様なんかなくても生きていけるよ」と思われかもしれません。

しかし、年を重ねれば体は衰え、若かった頃の力強さは失われ、気持ちも弱くなります。

人は、一人だけでは生きていく事はできません。

神様は全ての人の心に自由を与えてくださいました、だから、人は迷います。

神様は、心に自由を与えて下さったうえで、自分のところへ帰ってくるのを忍耐強くまっていてくださいます。

「わたしのところへ帰ってきなさい」

わたしたちは、神様をただ助けてくれるだけの存在だと思ってはいけません。

神様はわたしたちを造られ、そして、この世界を管理していく事を命じられました。

わたしたちは、自分たちの力に驕り高ぶらず、誰に対しても親切で、正しい人でなければいけません。

そして、神様は、わたしたちが神様に立ち返り、一緒に歩んでいくことを待っておられます。

神様に喜んでもらえる、そんな人として歩んでいけるようお祈りしたいと思います。