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主の使い

モーセは若い頃、血気盛んな性格で、同胞イスラエル人をエジプト人の迫害から守るために誤ってエジプト人を殺してしまいました。そのことが原因で、エジプトの王パロから追われる身となります。

彼はミデヤンの地へ逃れ、そこで水を汲みに来た娘たちを乱暴な羊飼いたちから助けたことで、その家に迎え入れられました。そこは祭司の家で、7人の娘たちがいました。その家庭と意気投合したモーセは、娘のひとりチッポラを妻に迎え、そこで定住することになります。

そんなある日、モーセは義父エテロ(リウエル)の羊の群れを連れてホレブの山へやってきます。
さて、出エジプト記の2章では義父の名前はリウエルと書かれていますが3章ではエテロとなっています。
リウエル(רְעוּאֵל, Re‘u’ēl)は「神の友」という意味の名前で、おそらく本名です。
エテロ(יִתְרוֹ, Yitro)は「卓越した者」または「尊敬される者」といった意味を持ち、称号的な名前(尊称)だったのかもしれません。

モーセが羊を連れてやってきた場所を聖書では「神の山ホレブ」と書かれています。

ここでは『神の山ホレブ』と記されていますが、これは何気なく書かれたわけではありません。
実はこの記述には、一つの重要な伏線が隠されています。

ホレブ山はシナイ山とも呼ばれ、後にモーセが主から十戒を授けられる場所となります。
モーセの義父エテロは祭司であったため、ホレブの山が「神の山」として知られていた可能性もあります。しかし、出エジプト記を書き残す際、モーセ自身が「この山こそ主の山だったのだ」と改めて認識し、そう記したのかもしれません。

さて、モーセがホレブの山に到着すると、そこで不思議なものを目にします。

目の前で背の低い木々が燃えていました。山火事のようにも見えたかもしれませんが、よく見ると普通の火とは異なる不思議な現象でした。

聖書(出エジプト記3:2)では、「柴は火に燃えているのに、その柴はなくならなかった」と記されています。

「柴(しば)」と聞くと、日本に住んでいるわたしたちは、おそらく「芝生」を想像するでしょう。
ここで言われている「柴(しば)」は「芝生」とは異なり、荒野に生える背の低い木のことを指しています。
この『柴』という言葉の元々のヘブライ語は「スネー(סְנֶה)」で、アカシアやいばらのような低木(ていぼく)を指します。
つまり、モーセが見たのは「芝生が燃えている」のではなく、「小さな木が燃えているのに燃え尽きない」という不思議な現象でした。

「すると主の使いが、柴の中の炎のうちに彼に現れた。」

聖書 出エジプト記3:2

モーセは驚き、「どうして柴が燃えているのに燃え尽きないのか、近寄って確かめよう」とします。
すると、次の節にはこうあります。

「主は彼が近寄って見るのを見て、神は柴の中から彼を呼んで言われた。
『モーセよ、モーセよ』」

聖書 出エジプト記3:4

ここで注目すべきは、2節では「主の使い」だったのに、4節では「主」または「神」と記されていることです。
この表現には深い意味があり、聖書では「主の使い」が「主」であったり「神様」であったりと曖昧な表現が他にも多く見られます。

かつての自分なら、こうした箇所は何も考えずに素通りしていたでしょう。
しかし最近では、CGN テレビという聖書のお話やさまざまな教会の礼拝メッセージを放送している番組を観たり、
スティーブンス栄子さんのイスラエル宣教のDVDを観て学ぶうちに、聖書の読み方が変わってきました。

聖書はイスラエルの文化を背景に書かれています。
そのため、当時の文化や歴史を理解せずに読むと、多くのことを見落としてしまいます。
だからこそ、違和感を感じる箇所があれば、「当時の人々はこの言葉をどう受け取ったのか?」という視点を持つことが大切です。

さて、話を戻しましょう。
聖書には「主」が「主の使い」という形で記されている箇所が多くあります。

例えば…

創世記32:24-30

ヤコブが「ひとりの人」と格闘し、「あなたはイスラエルと名乗りなさい」と言われる場面。
→ 最初は「人」と記されています。やがて「主の使い」なんだなとなり、最後は文脈上「神ご自身」と読み取れます。

「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」

イスラエルとはヘブライ語で「イスラ」は戦う、争う、勝利するという意味
「エル」とは神様という意味です

ただの主の使いに「神と戦って勝ったからイスラエルと名乗りなさい」という権限はあったのでしょうか、これは文脈上主の使いの姿として現れた神様だと考えるのが自然です。

創世記16:7-13

アブラハムの妻サライの女奴隷ハガルが主の使いに会い、「あなたはエル・ロイです」と言った場面。
→ 「エル・ロイ(私を見ておられる神)」という表現から、主ご自身が「主の使い」として現れたことがわかります。

ここでも「エル」、神様という意味の言葉が出てきます

ハガルは「あぁ、神様がわたしに現れてくださったんだ」と思い、このように語ったのだと思います。

出エジプト記3章(燃える柴)

そして、今回の聖書の箇所では「主の使い」が柴の中に現れますが、その後「主」「神」として語っています。
→ 最初は「主の使い」と「神様」が一緒にいるかのように錯覚しますが、文脈上、主の使い=神であると読み取れます。

このように、聖書では「主の使い」と記される場面が、実は主ご自身の顕現である箇所がたくさんあります。

聖書学者の間では、「主の使い(מַלְאַךְ יְהוָה, マラアク・アドナイ)」が神ご自身の顕現(テオファニー)として描かれていると解釈されています。

具体的には、創世記16章7節から13節にでは、「主の使い」がハガルに語りかけ、その後の記述でハガルが「主の名を呼んだ」とされていることから、「主の使い」と「主」が同一視されていると考えられます。

主の名をみだりに呼んではならない

なぜ聖書では直接的な表現を避けて書かれているのでしょうか。

主なる神様は人間を創造された人間の理解を超越した聖なる性質をもったお方で、シナイ山でモーセに与えられた十戒にも「主の名をみだりに呼んではならない」と戒められています。

当時の聖書を書き記した著者達はこの教えを忠実に守るために神様の事をとても慎重に表していたのだと思います。
神様の聖なる性質を損なわずに十戒の戒めを守るために「主」や「主の使い」と間接的な表現を用いていました。

日本語では「神様」という言葉は、神様に対する敬称・尊称として使われます。「様」を付けることで、より丁寧で敬意を表す形になります。これは日本語特有の敬語表現であり、神様の名前を呼んでいるわけではありません。

しかし、ヘブライ語においては、神様の名前を直接口にすることは極めて神聖な行為とされ、みだりに呼ぶことは十戒の戒めに違反する可能性があるため、慎重に扱われていたという事になります。

ヘブライ語では、「神様」と言うような敬称の概念はなく、神様の名をみだりに唱えないために「アドナイ(主)」という言葉を代わりに使っている。

これは 十戒の教えを守るための配慮 であり、日本語の「神様」という敬称とは文化的な背景が異なる ということになります。

まとめますと

  1. 「主の使い」は神の顕現(Theophany(テオファニー))である
    • 聖書の中で、「主の使い」が神ご自身として語る場面があります
    • これは 「神が人の目に見える形で現れる時の表現」 であり、単なる天使とは異なります
  2. 神様の名前を直接扱わないための表現
    • 聖書には 「神を直接見ることはできない」(出エジプト記33:20) という教えがあります
    • また 「神の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20:7) という戒めにより、神の聖性を保つために、「主の使い」や「主よ」といった間接的な表現が用いられた
  3. 天使の姿として描かれる理由
    • 「主の使い」が現れる場面では、しばしば 天使のような姿 や 燃える柴、雷、雲の柱 などの象徴的な形で描かれます
    • これは 神を直接描くことを避けるための表現手法 であると考えられる
  4. 聖書の著者たちは主の聖なる性質を保つために慎重に記した
    • 私たちは聖書を読んで「主の使い」を神とは別の存在と考えがちだが、文脈を慎重に読み解くことで、聖書の著者たちが神に対する畏敬の念を持ち、直接的な表現を避けていたことが分かります
    • 超越的な神様の存在を表す際、神様の名前を発音すること、文書に書き記すこと、絵に描くことすべてに慎重であったため、雷や炎、天使などの象徴的な表現が多用されていました

このことから、イスラエルの民の神様に対する姿勢や教えを守る厳格さ、こういったものが、わたしたちクリスチャンに求められている。ということを学び取ることができます。

主を畏れなさい

もえる柴の中から主の呼ばれる声を聞いてモーセはとても恐れて顔を隠しました。神様を直接見ると死んでしまうと信じられていたからです。出エジプト記33章20節にも「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はいないからである」と書かれています。

主なる神様は人間を大きく超越した聖なる存在であるため、「神の絶対的な聖さ」に圧倒されたということもあったのだと思います。

モーセは自然を超越した現象を見て主なる神様がそこにおられるとすぐに信じ、不敬な態度とならないよう顔を隠しました。

素直な心と信仰心があるからこそだと思います。

ここで、わたしたち現代に生きる人たちへと目を向けてみたいと思います。

聖書はただ物語として読んでしまってはいないでしょうか、当時の彼らの文化や習慣への理解を深めずにいると、ただ物語として読むだけになってしまい、深い意味まで感じ取る事はできません。

神様の事を敬ってその教えを守る事。聖書時代の人たちはとても忠実でした。

わたしたちは聖書の中からその忠実に教えを守る、神様の事を畏れ敬うことがとても大切であるという事を学ばなければいけません。

実際にはどうでしょうか?

  • 現代の生活の中では神様を敬っていると思えない表現で溢れています
  • アニメや映画や小説では神様が単なるキャラクターのように描かれており、神様の超越的な聖なる性質が損なわれています
  • 特に日本では「八百万の神」が信じられており、偶像崇拝が日常化している

このように現代では「神を畏れる」という感覚が薄れています。

礼拝をしている間は神様を畏れ、礼拝が終われば現実世界へ帰ってくる、そのような感覚に陥らないよう、わたしたちは気を付けなければいけません。

「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造り変えられ、何が神のみ旨であるかをわきまえ知るべきである」

ローマ12:2

とあります、油断しないよう、礼拝が終われば教会の入り口でサタンが待っています、さぁ、礼拝は終わった、現実の世界へ帰ろう、そして楽しいエンターテイメントで溢れた世の中を満喫しよう。

その言葉にわたしたちは耳を傾けないよう、神様に守ってもらえるようお祈りし、そして日々、心を新しくして神様を自分の中に迎え入れる、そんな生活を送れるよう心掛けていきたいと思うのです。

わたしたちにできること

現代に生きるわたしたちにできることは何があるでしょうか

聖書の時代に生きる人たちの文化を理解することで、どれだけ神様の事を畏れ、神様に栄光を返すために信仰の道を歩んできたのかを学ぶ事ができます

聖書の時代は過去の事ですが、聖書は昔から1つも変わらず世界中に伝えられてきた、神様の奇跡のひとつです

聖書の時代の人たちに学び、そして現代の中でどう生きていくべきかを見極め、神様に立ち返ることで神様への信仰を深めていくことができます

主の聖なる性質を理解し、畏れ敬う心を持ちながら、現代の誘惑に流されずに神と共に歩むことができるよう祈って生活していきたいと思います