● イエス様について学びましょう

 この教会に来ている方達はイエス様の事はとてもよくしっていると思います。 Youtube を見ている方達もイエス様はとても有名なのでしっていると思います。

イエス様は神様でありながら人としてこの世にきてくださった方です。神様だから本当はなんでもできるはずなのに、人として様々な試練に会いました。

イエス様は私たちと同じように空腹を感じ、疲れを覚え、涙を流されました。また、時には拒絶され、人々から誤解されることもありました。それでもイエス様は、すべてを耐え抜き、私たちの救いのために歩み続けてくださいました。

イエス様は荒野で悪魔の誘惑を受けたとき、御言葉を用いて打ち勝たれました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と言われたように、イエス様は私たちにも、神の言葉こそが力であり、試練に打ち勝つための道であることを教えてくださっています。

イエス様は、罪のないお方でありながら、私たちの罪をすべて背負って十字架にかかられました。私たちが本来受けるべき罰を、ご自分が代わりに引き受けてくださったのです。それは私たち一人ひとりを愛しておられるからです。この愛はどんな人にも与えられている無条件の愛です。

イエス様はこの世で生きておられる間に沢山の教えと奇跡を行ってくださいました。今日はイエス様について更に学んでいきたいと思います。

● バプテスマのヨハネ

 イエス様が公の働きを始められる前に、その道を準備するために活動していた人物がいました。それがバプテスマのヨハネです。彼の役割とイエス様との関係について見ていきましょう。

イエス様と同じ時代にバプテスマのヨハネという人がいました。この人はユダヤの荒野(あらの)で神様の教えを広めていました。そして様々な人達が彼のもとへやってきて自分の罪を告白し、悔い改めてバプテスマをヨハネからうけていました。

バプテスマとはなんでしょうか、バプテスマとはギリシヤ語の「バプティゾー」から来ており「水に沈める」「浸す」という意味があります。最初の頃のキリスト教ではバプテスマは身体全体を水に浸す形で行われていました。現代では「洗礼」と呼ばれています。

バプテスマは単なる水を使った儀式ではなく、罪を悔い改めて神様に立ち返る意思を示すもの、水は清めの象徴であり、身体を水に浸すことで罪が洗い流される事を示しています。

バプテスマは罪の支配下であった古い自分が新しい命に生まれ変わる事を象徴しており、キリストの体である教会の一員になることを意味しています。

ヨハネのバプテスマは悔い改めを目的としたもので、イエス様の到来を準備するものでした。

バプテスマを受けたそのとき、天から神様の御霊がはとのように降りてきて「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」声が届いてきました。

イエス様は何故バプテスマを受けられたのでしょうか。

【すべての儀を実現するため】

イエス様がヨハネから受けたバプテスマは、イエス様はそもそも罪の無い方だったので悔い改めの必要はありませんでしたが、神様の御心、全ての儀を全うするためのものでした。一度はヨハネから「とんでもない、わたしこそあなたからバプテスマを受けるべきなのに」と言いましたが「今は受けさせてもらいたい、全ての正しいことが成就することはわれわれにふさわしいことである」と仰られ、すべての儀が実現するために必要であるとされていました。

【罪人と同一になる】

イエス様のバプテスマは、イエス様が私達罪人と同じ立場に立たれる事をも象徴しています。これは、イエス様が罪人と共に生き、彼らを救うために彼らと同一視されたことを示しています。

【公の使命のはじまり】

イエス様のバプテスマは公の宣教活動の始まりを告げるものでした。イエス様がバプテスマを受けた直後、聖霊が鳩のように降り、天からの声が聞こえました。この出来事は、イエス様が救い主であり、神の子であることを天の父が公に宣言され、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と神様から明確に使命があるとの承認がありました。

【模範を示すため】

イエス様は私たちに「従順」の模範を示すためにバプテスマを受けられました。バプテスマは、神への従順と信仰を表す行為です。イエス様がその模範を示すことで、私たちも同じように神に従うよう招かれました。イエス様は「わたしについてきなさい」と言われるお方であり、まずご自身がそれを実行されました。

【キリスト教のバプテスマ】

そしてイエス様が十字架にかかられ復活されたあと、現代のバプテスマは救い主イエス様への信仰を告白するものとなりました。罪を告白し悔い改め、古い命から新しい命の始まりを象徴するものです。

● イエス様の活動

 マタイの福音書4章23節からはイエス様の働きが具体的に描かれはじめるとても重要な個所です。

「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を延べ伝え、民のあらゆる病気、あらゆるわずらいをお癒しになった」

イエス様の教えは単なる知恵や知識ではなく、神様からの権威を伴うもので多くの人達の心に直接語り掛ける力がありました。

また、イエス様が癒されたのは病気だけではなく精神的な問題のある人や慢性的な疾患で社会的に見捨てられていた人達もいました。

これは単なる医療行為ではなく、人々の身体、精神、社会的地位などを回復させ、これにより多くの人々は「イエス様こそ神の力をもつお方だ」と確信させるものでした。

そして、沢山の群衆たちが噂をききつけてイエス様に従ってきました。

マタイの福音書4章25節では「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダン川の向こうからおびただしい群衆がきてイエスにしたがった」

イエス様の噂はガリラヤだけに留まらず広範囲に広がりました。また、デカポリスは異邦人が多く住む場所で、ここからも人々が来たことは、イエス様の働きがユダヤ人だけではなく異邦人にも影響を与えていました。

イエス様は人々を見下したり、区別したりせず、すべての人に等しく憐みをもって接しました。

また、社会的に見放されている人々、病人や貧しい人に罪人もイエス様は受け入れられました。

イエス様は、病気や怪我を治すなどの物理的な癒しだけではなく、心の傷や霊的な渇きにも応えられました。

イエス様の働きのこの初期の段階で、すでに多くの人々が引き寄せられたのは、イエス様が単に奇跡を行うだけでなく、その教えと愛が人々の心に深く届いたからでした。

● イエス様の教え

 イエス様の教えは、神様がどんなに私達を愛してくださっているのか、ただの1人も救われないものがないように、神様の愛を伝えるものでした。

しかし、救われるためには罪の悔い改めが必須条件でした。イエス様は色々なところで神様に立ち返り、悔い改めなければ地獄の火に投げ入れられて魂を滅ぼしつくされると警告もされています。

マタイ7章13節「狭い門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない。

7章21~23節「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」

「その日には、多くの者が、わたしに向かって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」

この個所では口先だけで「主よ」と呼ぶことの無意味さを警告されています。神様を信じているふりをしたり、宗教的な活動を行っているだけでは天国には入れません。

真の信仰は、単なる言葉や形式的な行為ではなく、神様の御心に従う生活に現れます。

イエス様の名前を使って悪霊を追い出し、奇跡を行うような大きな業をしている人であっても、その行いが神の御心に基づいていないなら、神様から「あなたがたを全く知らない」と言われる可能性があります。

これは、宗教的な成功や目立つ働きが神様の評価基準ではないという事を明確に伝えています。

「不法を働く者」とは、神の律法や御心に反する行動をとる者を指します。表向きは信仰深いように見えても、その心や動機が自己中心的であったり、神様に従わないものであるなら、それは「不法」となってしまいます。

イエス様がこの厳しい警告を与えられたのは、信仰者に「内面の真実さ」と「御心に従う生き方」を促すためです。

形式的な信仰への戒めとして、単なる宗教活動や奇跡の行いは、本質的な信仰の代わりにはなりません。

神の御旨を行うとは、神の愛と律法に従い、謙虚に生きることです。

● 悩んでいるあなたのために

 さて、今あなたはとても悩んでいるかもしれません。仕事がうまくいかない、その事で叱責されてしまう。自分に価値がない、救われていない、自分の心を誰かに救ってほしい。そうでなければ消えてしまいたい。

現代に生きる人達にはそういう悩みを持つ人達が大勢いると思います。

もし、今イエス様があなたを救ってくれるとしたらどんな言葉をかけてくださるのでしょうか。わたしにどんな希望を与えてくださるのでしょうか。そのためにわたしは何をイエス様に願えばよいのでしょうか。

【マタイの福音書11章28節】

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

【ヨハネによる福音書14章27節】

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしが与えるのは、世が与えるのとは違います。心を騒がせてはなりません。おびえてはなりません。」

これらの聖書の個所は、悩む心にたいしてイエス様の救いを求める事がとても大切だという事が記されています。

もし今、心に大きな重荷を感じているなら、イエス様に『主よ、憐れんでください』と祈ってみてください。その祈りに応えて、イエス様は必ずあなたを癒し、回復させ、希望を与えてくださいます。イエス様は私たちを見捨てることなく、どんなに小さな声でも聞いてくださるお方だからです。

● イエス様は今も生きておられます

 聖書に書かれている事は2000年も前の出来事ですが、今もこうして私達をみまもり、そして神様に立ち返って悔い改め、そして神様に救いを求めるのをずっと待っておられます。

どうしても苦しい時、そっと目を閉じて静かな場所で心を穏やかにしてイエス様のお名前によってお祈りしてみてください。

「天の父なる神様、わたしは今とても苦しんでいます。人の力ではどうにもなりません。どうかわたしのこの心の苦しみを取り去ってください。イエス様は仰いました。『重荷を負っているものは、わたしのもとへきなさい、あなたがたを休ませてあげよう』と、どうかわたしを休ませてください。この世の全ての人達を愛してくださる神様に感謝いたします。主イエス様のお名前によってお祈りいたします、アーメン」

心から神様により頼んでお祈りしてください。神様は必ず聞いてくださいます。どうか、心を悩ませているあなたがたの心がおだやかになりますように。