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出エジプト記34章「神様の栄光を映し返す」
神様の栄光を受けて輝くモーセ
イスラエルの民たちが神様に背いて「金の子牛」を造り、神様がお怒りになったその後の出来事です。
モーセは神様の言いつけに従い、石板を2枚用意して、神様の山であるシナイ山を登り、そこで40日40夜の間、何も食べず、何も飲まず、神様とそこで過ごし、神様の言葉を石板に書き記しました。 【 注釈1参照 】
そして、シナイ山を下りて、イスラエルの民たちのところへ帰ってきました。
このとき、モーセの顔の皮は神様の栄光をうけて光り輝くようになっていましたが、自分ではそのことに気が付きませんでした。
アロンとイスラエルの民たちは、シナイ山から帰って来たモーセを見てびっくりし、その輝きを見て怖がりました。
その顔の輝きは神様の栄光によるもので、イスラエルの民たちを畏怖させる、神様の大きな力を感じさせるものがあったのだと思います。
彼らがあまりにも怖がるので、モーセはその顔の輝きを隠すために顔を覆いで隠し、幕屋の中で神様と会う時だけ、その顔の覆いを外しました。
シナイ山での出来事
モーセは 「金の子牛事件」 の前と後でそれぞれシナイ山に登り、神様から律法の石板を授かりました。
1度目の登山
はじめは神様が石板を用意し、石板に文字を書いてくださいました。すべて神様が備えてくださった、恵みのかたちでした。
エジプトを出てからここにくるまでの間、イスラエルは何度も神様に対して挑戦的でいいつけを背き、神様の怒りを買っていました。
神様とモーセの間で語らいの時もあったかもしれませんが、これまでのイスラエルの民の犯した罪のとりなしを、きっとしていたことでしょう。
金の子牛事件
イスラエルの民たちは、モーセの帰りが遅い為、不安に耐え切れず、自分達のために都合の良い金の子牛の像を造り、これを拝みました。
神様はモーセに急いで下山しなさい、わたしは、イスラエルの民たちを滅ぼすと宣言されるほどに神様の怒りは大きなものでした。
モーセのとりなしで神様は一旦彼らを滅ぼすのを思いとどまりました。 モーセは下山し、金の子牛を礼拝して熱狂するイスラエルの民をその目にし、手に持っていた石板を砕きました。これは、神様との契約が破られたことを示す出来事でした。
モーセは神様に従うものを呼ぶと、レビ族が集まりました。 モーセは彼らに命じて、イスラエルの民おおよそ三千人を殺しました。
2度目の登山
モーセは大きな罪を犯したイスラエルの民たちの赦しを乞うために、ふたたびシナイ山を登りました。 モーセはシナイ山の山頂で、彼らのためにとりなしをし、40日40夜の間、何も食べず、何も飲まず、神様に祈りつづけ、必死にとりなしをし、赦しを乞いました。
彼のとりなしは、申命記に詳しく書かれています。
申命記9章8-9,25節
8. またホレブにおいてさえ、あなたがたが主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを滅ぼそうとされた。
9. わたしが石の板すなわち主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために山に登った時、わたしは四十日四十夜、山にいて、パンも食べず水も飲まなかった。
25. そしてわたしは、さきにひれ伏したように、四十日四十夜、主の前にひれ伏した。主があなたがたを滅ぼすと言われたからである。
そして、ふたたび律法の石板が与えられましたが、最初と違い、モーセが石板を削り、石板を担いで山を登り、モーセが石板に神様の言葉を書き記しました。 【 注釈1参照 】
イスラエルのために律法を与えてくださった神様の恵みは変わりませんでしたが、二回目は、神様の恵みに対して人間の側からの応答がありました。 つまり、神様との契約の更新には、人間からの能動的な応答が必要だという事です。
聖書の中の40という数字
モーセはシナイ山で40日40夜断食しましたが、この聖書の「40」という数字は、試練、待機、悔い改め、準備期間のような、かなり象徴的な数字として、何度も聖書に登場します。
- ノアの洪水では、雨が40日40夜降った
- ヤコブが死んだあと、防腐処理に40日かかった
- 約束の地の偵察に40日かかった
- イエス様は荒野の試練で40日40夜断食された
- イエス様は復活後、40日の間、神様の国のことを語られた
聖書を読むときには、こうした数字や繰り返しにも、ぜひ注意して読んでみてください。聖書には、異なる時代に書かれた書物同士が不思議につながり、そこに法則性のようなものが見えてくることがあり、こうしたつながりが見えてくるのは、とても不思議で、神様の素晴らしい導きを感じます。
光輝いたモーセの顔
二度目のシナイ山の山頂で、モーセは40日40夜の間、何も食べず、何も飲まず、とりなしをしました。
モーセは神様の怒り、赦し、そして契約更新の重さを深く経験し、そのうえで再び神様と語り、神様の栄光を受けたからでしょうか、モーセの顔は神様の栄光を受けて光を放ちました。
顔の皮
モーセの顔が輝いた箇所、口語訳の聖書には「顔の皮」と書かれています。
この 「顔の皮」 は、ヘブライ語では 「עוֹר」(オール)で、皮膚という意味です。そして 「輝いた」 と訳されている言葉は 「קָרַן」(カーラン)で、「光を放つ」 という意味があります。
ただ、この 「קָרַן」(カーラン)には 「角」 に関係する響きもあるため、ラテン語訳の聖書では、モーセの顔が 「輝いた」 というより 「角が生えた」 ように訳されました。
その影響で、ミケランジェロの彫ったモーセ像には、なんと角が生えています。モーセなら、少し違和感が薄いのが不思議です。
栄光から遠ざかる・近づく
創世記3章21節
主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
ここは、創世記でアダムとエバが、神様が食べてはいけないと命じられた「善悪を知る木の実」を食べ、自分たちが裸であることを知ってしまった二人のために、神様が皮の衣を造って着せてくださる場面です。
ここで出てくる「皮」も、先ほどと同じ「עוֹר」(オール)です。
アダムとエバは、罪によって裸であることを知り、恥を覚えました。そして神様は、その二人を皮の着物で覆ってくださいました。しかしその後、二人はエデンの園を追放され、神様の栄光の近くから遠ざかることになります。
一方、モーセは神様と語ったことによって、顔の皮が神様の栄光を反射するように輝きました。
創世記では、罪と恥のゆえに「皮」が覆いとなり、出エジプト記では、神様と語ったモーセの「顔の皮」が輝く。
同じ「皮」という言葉が、正反対のような文脈で出てくるのは、とても象徴的に感じます。
神様の栄光を映し返す
わたしたちは、日々、神様から恵みを注いでいただいています。
出エジプト記では、神様の霊が注がれて幕屋を作るための知恵・技能・理解力を与えられた人たちが登場します。 なかでもユダ族のベザレルという人には特別に能力だけでなく、人に教える能力までも与えられました。
名もない多くの人たちも、神様から知恵と技能を与えられ、幕屋を造る働きに加わりました。
モーセのように、顔が光を放って輝くことはないかもしれません。しかし、わたしたちもまた、神様の恵みの中で生かされています。
神様は、わたしたち一人ひとりに賜物を与えてくださいます。芸術、大工仕事、音楽、建物を造る技術。そうした技能も、神様が人に与えてくださる賜物として聖書に描かれています。
才能や技術は、学び、練習し、失敗しながら磨かれていくものです。しかし、その努力を続ける力や環境も、神様から与えられた恵みの中にあります。だから努力を否定する必要はなく、与えられたものを大切に育てることも、神様への応答なのだと思います。
大切なのは、その賜物を自分だけの栄光にしてしまわないことです。
賜物を感謝して用いるとき、私たちはその中でさらに神様の恵みを知ることがあります。しかしそれは、見返りを期待する取引ではありません。神様の恵みは報酬ではなく、一方的に与えられるものです。だから私たちは、すでに与えられている恵みに感謝して、神様と人のために用いていくのです。
日々神様に感謝し、神様から与えられた栄光を映し返しながら生きていけますよう、お祈りしたいと思います。
【 注釈1 】
2回目に石板に書き記したのは神様?モーセ?
出エジプト記34章1,27~28節
1. 主はモーセに言われた、「あなたは前のような石の板二枚を、切って造りなさい。わたしはあなたが砕いた初めの板にあった言葉を、その板に書くであろう」。
27. また主はモーセに言われた、「これらの言葉を書きしるしなさい。わたしはこれらの言葉に基づいて、あなたおよびイスラエルと契約を結んだからである」。
28. モーセは主と共に、四十日四十夜、そこにいたが、パンも食べず、水も飲まなかった。そして彼は契約の言葉、十誠(じっかい)を板の上に書いた。
申命記10章1~2節
1. その時、主はわたしに言われた、『おまえは、前のような石の板二枚を切って作り、山に登ってわたしのもとにきなさい。また木の箱一つを作りなさい。
2. 先におまえが砕いた二枚の板に書いてあった言葉を、わたしはその板に書きしるそう。おまえはそれをその箱におさめなければならない』。
出エジプト記34章1節・申命記10章2節では、神様が板に書かれると明記されています。一方、出エジプト記34章27節では神様がモーセに「書きなさい」と命じられますが、石板にとは書かれていません。そして34章28節はヘブライ語原文で主語が明示されていないため、神様が書いたのかモーセが書いたのか、現在も解釈が分かれています。