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出エジプト記34章「わたしは情熱の神です」

わたしたちはかたくなな民です

神様は、モーセに再び十戒を授けるために、前と同じような石の板を二枚切り出して持参し、シナイ山の頂上まで来るようにと仰いました。

モーセがシナイ山の頂上に来ると、神様が雲の中から降りてきて栄光がそこを通り過ぎ、神様がご自分のお名前を宣言されました。モーセはその場にひざまずいて、神様にこう言いました。

「神様、わたしたちは本当に頑固な民です。もし、神様がわたしたちに恵みをくださるのであれば、どうか、わたしたちと一緒に約束された土地まで連れていってください。どうか、わたしたちの罪をゆるしてください。わたしたちは、あなたのものです」

以前、イスラエルの民が偶像を造ったために神様が「彼らを滅ぼす、モーセよ、わたしを止めるな」と仰られた時、モーセは「神様、どうか思い直してください」と必死に宥めていました。あの時とは、まるで違う態度です。

実際にイスラエルの民が偶像を祀り上げて騒ぐ姿を目の当たりにしたことで、モーセは民のしたことを心から悔いていました。神様から選ばれてイスラエルの民を導く立場にあるモーセには、こんな思いがあったのではないでしょうか。自分が留守にしている間に、決して神様に背かず静かに待っているよう、きちんと言いつけを守らせることができたはずではなかったか。正しく導けなかった自分を含めて、イスラエル全体が神様に対して罪を犯してしまった——と。

モーセの心理状況が聖書に直接書かれているわけではありません。しかし、深い責任感と「自分にも罪がある」という自覚がなければ、このような誠実な執り成しはできなかったと思います。

出エジプト記32章31節

31. 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならばーー。しかし、もしかなわなければ、どうぞ、あなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください。

モーセは自分の命を差し出してでも民をかばおうとしています。「神様の教えを伝えたにもかかわらず背いた民が悪い、わたしは悪くない」——モーセは決してそのようなことを言いませんでした。彼はただ、「わたしたちは、あなたのものです」と言いました。

恐るべき神様の奇跡

神様はモーセの言葉を聞いて、こう答えられました。

出エジプト記34章10節

10. 主は言われた、「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしは地のいずこにも、いかなる民のうちにも、いまだ行われたことのない不思議を、あなたのすべての民の前に行うであろう。あなたが共に住む民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたのためになそうとすることは、恐るべきものだからである。」

「恐るべきもの」とはヘブライ語で「נוֹרָא」(ノーラー)、語根は「יָרֵא」(ヤーレー)、「恐れる・畏れる」という動詞です。「怖い・ビビる」という感覚ではなく、圧倒的な神様の聖なる力を前にして覚える「畏怖」——「すごすぎて言葉が出ない、気が付いたら膝をついて平伏してしまう」、そういう感覚です。

そのような奇跡を実際に体験できたイスラエルの民が、現代に生きるわたしには正直なところ、とても羨ましく思えます。

神様のしるし

マルコによる福音書8章12節

12. イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」

「奇跡を起こして見せてくれれば信じるのに」——わたしたちはそのように考えがちです。しかしイエス様がこの言葉を語られたのは、律法学者たちがイエス様を「試して」奇跡を要求した場面でした。その時点ですでに、イエス様は多くの病人を癒し、飢えた群衆に食べ物を与えてくださっていたのです。

奇跡は今の時代にも与えられています。ただ、「神様が本当にいるか試してやろう」というような、神様を試そうとする心が、神様の奇跡を見えなくしてしまうのです。

わたしは彼らを追い払う

神様はさらに続けられます。

出エジプト記34章11~14節

11. わたしが、きょう、あなたに命じることを守りなさい。見よ、わたしはアモリ人、カナンびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとを、あなたの前から追い払うであろう。
12. あなたが行く国に住んでいる者と契約を結ばないように、気をつけなければならない。おそらく彼らはあなたのうちにあって、わなとなるであろう。
13. むしろあなたがたは、彼らの祭壇を倒し、石の柱を砕き、アシラ像を切り倒さなければならない。
14. あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。

約束の地に住むこの六つの部族は、いずれも長年にわたって神様に背き、悍ましい偶像礼拝を行っていました。神殿での売春、幼い子どもを生贄として火に投じる儀礼、死者との交信や呪術——現代の感覚では到底受け入れがたい風習が、宗教の名のもとに行われていたのです。

それでも創世記15章16節に「アモリ人の罪はまだ満ちていない」とあるように、神様は数百年にわたって悔い改めを待ち続けておられました。近代においてこの出来事を「侵略戦争だ」と批判する声もありますが、この背景を知ると、むしろ「追い払うのが遅すぎたのでは」とさえ思えてきます。

神様はさらに「彼らと契約を結んではならない」と警告されます。共存すれば、やがてその罪に引き込まれるからです。「他の宗教だからといって排除するのは乱暴だ」と感じる方もいるかもしれませんが、ここで問題にされているのは宗教の違いではなく、子どもを焼き殺すような悍ましい罪の風習への妥協です。

わたしは「情熱」の神

さて、34章14節の「ねたむ神」というヘブライ語の原文は「קַנָּא」(カンナー)、語根は「קָנָא」(カーナー)です。この言葉の本来の意味は「情熱・熱心・熱烈な愛」「独占的な愛から来る激しさ」であり、口語訳の「妬む」というネガティブなイメージとは大きく異なります。

翻訳の歴史を辿ると、ヘブライ語からギリシア語(七十人訳)、ラテン語(ウルガータ)へと訳される間は「熱心・情熱」のニュアンスが保たれていました。問題が生じたのは英語への翻訳においてです。ギリシア語「ζῆλος」(ゼーロス)を共通の語源として、英語では「zealous(ジーラス)=熱心な」と「jealous(ジェラス)=嫉妬深い」に分岐し、1611年の欽定訳聖書(きんていやくせいしょ)(KJV、キング・ジェームズ聖書とも)が「jealous God」と訳したことで「妬む神」というニュアンスが世界中に広まっていったのです。

出エジプト記34章14節の本来の意味は、

「主はその名を『情熱』と言って、情熱と熱心の神だからである」

となります。

わたしはあなたを求める神

「ねたむ」という言葉でも、ネガティブな感情をポジティブに読み替える文化を持つ日本語においては、ある意味で的を射た表現とも言えるかもしれません。

神様は善人にも悪人にも、その人の働きや実績に関わらず、平等に恵みを注いでくださっています。悍ましい宗教儀礼を行い続けた民でさえ数百年も忍耐して待ち続けられた神様の前に、わたしたち人間の忍耐はなんと小さなものでしょうか。

神様はこう言っておられるように思います。「わたしは、あなたがたが悔い改めて、共に歩むことを望んでいる。動くことも、何もすることもできない偶像を拝むことをやめて、あなたがたを造ったこのわたしのところへ来なさい」と。

日常の変わらない日々を退屈だと感じながら過ごしていても、体に障害が生じて初めて「あの退屈だった日常が、何と豊かな恵みだったのか」と気づかされることがあります。失って初めて、神様がどれほど多くの恵みを注いでくださっていたかに気づくのです。

神様は、罪びとに対しても悔い改めを待ちながら忍耐し続けておられます。善悪や働きや実績によらず、ただ一方的に、神様からの恵みと祝福が与えられます。神様は今もなお、熱い情熱をもって、わたしたちが神様のもとへ立ち帰るのを待っておられます。

あなたの善悪や働きにかかわらず、平等にあなたを愛してくださる神様に立ち帰り、共に歩んでいけるよう、お祈りしたいと思います。


城尾淳一 神学生