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出エジプト記34章「わたしはあなたを求める神」
神様の栄光
神様はシナイ山で雲の中から栄光と共に下ってきて、モーセに神様の御名を宣言されました。
出エジプト記34章6~7節(現代訳)
6. 「わたしは神である。あわれみ深く、慈しみ深く、怒ること遅く、愛と真実にあふれた神。
7. 恵みを末永く与え、罪を赦す神。しかし、罰すべき者には罰せずにはおかない神である。」
人間が直視しただけで死んでしまう、神様の大いなる栄光がそこを通り過ぎ、神様ご自身による力強い御名の宣言です。
神様の栄光を直接見る事はできませんでしたが、栄光にも勝るとも劣らない、言葉は神様ですから、まさに神様そのものを、モーセは体験しました。
前回はこの箇所についてお話いたしました。
口語訳と現代訳
今回は、主任牧師からお借りした現代訳聖書から引用してます。
いつも使っている口語訳との読み比べてみると、とても興味深いところがありますので、ご紹介したいと思います。
出エジプト記34章7節
7. [口語訳] いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者。
7. [現代訳] 恵みを末永く与え、罪を赦す神。しかし、罰すべき者には罰せずにはおかない神である。
ヘセドの愛
- 口語訳 「いつくしみを千代までも施し」
- 現代訳 「恵みを末永く与え」
- ヘブライ語 「נֹצֵר חֶסֶד לָאֲלָפִים」 (ノツェール・ヘセド・ラアラフィム)
- 「נֹצֵר」 (ノツェール) → 「保ち続ける者・守り施す者」
- 「חֶסֶד」 (ヘセド) → 「いつくしみ・恵み・契約の愛」
- ヘブライ語で最も訳しにくい単語のひとつです(一語で訳せる単語がない)
- 契約に基づく揺るぎない愛・忠実さ・慈しみ
- 英語では
- 「loving-kindness」(ラビングカインドネス)=愛ある親切さ
- フランス語では
- 「grâce」(グレース) = 恵み・恩寵
- 「miséricorde」(ミゼルコリド) = 憐み・慈悲
- 日本語では
- 「いつくしみ」 → 感情・暖かさは出てるが契約の忠実さが薄い
- 「恵み」 → 神様からの一方的な贈与感はあるが、関係性、忠実性が薄い
- 「愛」 → 広すぎる
- 「誠実な愛」 → 意味は誓いけど説明的すぎる
- 「契約を守り続ける愛」 → 一番正確に近いけど説明的すぎる
- 「לָאֲלָפִים」 (ラアラフィム) → 「何千代にも・千代の人々に」
以上をまとめて口語訳、現代訳と比較するとこうなります。
- ヘブライ語 「何千代にもわたって、ヘセド(契約の愛)を保ち続ける者」
- 口語訳 「いつくしみを千代までも施し」
- 現代訳 「恵みを末永く与え」
こうして見ると、口語訳の方がヘブライ語の原文に近い翻訳となっています。
しかし、聖書の中では「千」という数字は数えきれない、とてつもなく大きな数字、永遠を意味する言葉となるため、原文の持つ意味としてはどちらも同質ということになります。
罪を赦す神
- 口語訳 「父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者。」
- 現代訳 「罰すべき者には罰せずにはおかない神である。」
- ヘブライ語「וְלֹא יְנַקֶּה פֹּקֵד עֲוֹן אָבוֹת עַל־בָּנִים וְעַל־בְּנֵי בָנִים עַל־שִׁלֵּשִׁים וְעַל־רִבֵּעִים」
(ヴェロー・イェナッケー、 ポケード、 アヴォン・アーボート、 アル・バニーム・ヴェアル・ブネイ・バニーム、 アル・シレシーム、 ヴェアル・リベイーム) - 「וְלֹא יְנַקֶּה」 (ヴェロー・イェナッケー) → 「決して無罪とはしない」
- 「פֹּקֵד」 (ポケード) → 「報いる者・訪れる者」
- 「עֲוֹן אָבוֹת」 (アヴォン・アーボート) → 「父たちの咎」
- 「עַל־בָּנִים」 (アル・バニーム) → 「子らの上に」
- 「וְעַל־בְּנֵי בָנִים」(ヴェアル・ブネイ・バニーム) → 「子の子らの上に」
- 「עַל־שִׁלֵּשִׁים」(アル・シレシーム) → 「三代にまで」
- 「וְעַל־רִבֵּעִים」(ヴェアル・リベイーム) → 「四代にまで」
以上をまとめて口語訳、現代訳と比較するとこうなります。
- ヘブライ語 「決して無罪とはせず、父たちの咎を子らの上に、子の子らの上に、三代・四代にまで報いる者」
- 口語訳 「父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者。」
- 現代訳 「罰すべき者には罰せずにはおかない神である。」
今回も、口語訳の方がヘブライ語の原文に忠実な訳となっており、現代訳では「三代・四代にまで報いる者」という言葉が削られています。
現代日本においては、「親から子供に罰が及ぶ」という概念は「連帯責任」や「遺伝」など、誤解されやすい概念になっています。
そのため、口語訳の方が原文に忠実ですが、説明なしに読むと「え、子供まで連帯責任なん?」ってなる危険が考えられます。
以上のことから、神様の厳しさの本質だけを残し、このような表現にされたのではないでしょうか。
子は父の罪を負わない
神様の仰った「三代・四代に報いる」とはどういう意味でしょうか。
まず前提として、連帯責任でも遺伝でもありません。
ヘブライ語の 「פָּקַד」 (パカド) = 「報いる・訪れる」 の用法を見ると、これは 「結果が波及する」 という意味で、罰が自動的に子孫に転送されるという意味ではありません。
エゼキエルの預言18章20節
20. 罪を犯した者は、その本人が死に、その子供は父親の罪の責任を負う必要はなく、父親もまた子供の罪の責任を負う必要はない。 正しい人は自分の正しさによってそう判断されるのであり、悪人は自分の悪によってそう判断されるのである。
つまり、聖書全体で見ると、個人責任が原則で、連帯責任ではありません。
では、この 「三代・四代」 とは何なのでしょうか?
それは、罪の影響・結果が、現実として波及する話だと考えられます。
例えば
- 親がアルコール依存 -> 子供の環境に影響
- 親が暴力的 -> 子供が暴力を学ぶ
- 親が偶像礼拝 -> 子供も同じ文化に育つ
これは、罰が転送されたのではなくて、罪の結果の現実的な波及です。
わたしはあなたを求める神
今日は出エジプト記34章6~7節を勉強いたしました、この言葉の中から、何か、気が付きませんでしょうか?
親の罪の悪影響は三代、四代にまで及びます。しかし、神様の恵みは千代にまで、本当の意味では永遠に続きます。
神様のいつくしみは、スマホのようにギガが切れる事がありません。神様はただ、無条件にわたしたちに、一方的に恵みを注いでくださいます。
朝が来て太陽が昇ると、金持ちも貧しい人も悪人も善人も分け隔てなく、神様の恵みである太陽の光が降り注ぎます。それは、神様がわたしたちを愛してくださっているからです。
エゼキエルの預言34章11~12節
11. 主である神はこう仰せられる。わたしは自分でわたしの羊を探し出し、その世話をする。
12. 羊飼いが昼間、放牧されている羊の群の世話をするように、わたしはわたしの羊を、あの裁きの日に、外国の地へ散らされて行った所から連れ出して、その世話をする。
羊とはわたしたちです。羊さんたちが悪いことをしても、羊飼いから見れば 「あー、カワイイカワイイ、あかんよー、悪さしたらー、めっ」 と、いい子になるのをものすごく辛抱強く待ち、全ての羊に牧草と水を与えて、一匹でも迷子になれば一生懸命探し出し、無事見付かると近所を巡り歩いて大喜びするんです。
神様は、あなたが神様の所に戻ってくるのを、そのように辛抱強く待っておられます。
何か心に悩みや苦しみを持っているあなた、道に迷っているあなた、家族との関係に苦しんでいるあなた、神様に 「どうか、助けてください」 お祈りしてください。
神様はとても喜んで、きっとあなたのために恵みを注いでくださると思います。あなたの苦しみが一日も早く取り除かれますように、お祈りしたいと思います。
城尾淳一 神学生