594283aec38462a4c9b51b475e3ccfa8
ヨハネによる福音書6章「わたしを見たのは父を見たのです」
招詞 詩篇23篇1~3節
主はわたしの羊飼い。わたしには、足りないものはありません。
聖書 ヨハネによる福音書6章58節
わたしは天から降りてきたパンです。
わたしを見たのは父を見たのです
わたしを信じる者はみな活きるのです。(ヨハネによる福音書13章45~50節)
わたしは命、あなたのたましいのやしない主です。と、イエス様は仰いました。
ユダヤの民は神の選民としてのほこりがありました。
唯一の神様を信じて生活していた人々にとっての希望でありました。
メシヤが来られる。
人々を導く預言者は重要な役目をにないました。
旧約聖書の預言書には、「彼らは皆、神によって教えられる」と記されています。
天のお父様から真理を教えられた人はだれでも皆、わたしの所に来ます。
だれも、実際に神様を見た者はおりません。しかし、わたしは見たのです。
わたしは天のお父様から来た者だからです。
だれであろうとわたしを信じる人は救われます。
わたしはあなたがたを救う命のパンだからです。(6章48節)
大勢の飢えた群衆と12かごの奇跡
過越の祭りが近づいていたころ、ガリラヤ湖のほとりに五千人以上の群衆が集まっていました。イエス様は弟子のピリポに「どこからパンを買って、この人々に食べさせようか」と問いかけられましたが、これはピリポを試みるための問いであり、イエス様ご自身は何をなさるか、すでに知っておられました。
弟子のアンデレは少年が持っていた大麦のパン五つと小さな魚二匹を見つけますが、「こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」と言うほかありませんでした。しかしイエス様は感謝をささげ、その場にいた人々に分け与えられました。五千人が満腹するほど食べ、余ったパン切れを集めると十二のかごがいっぱいになりました。
十二というのはイスラエル十二部族を象徴する数です。神の民すべてを満たすパンが余ることなく与えられる。この奇跡はすでに、イエス様が何者であるかを指し示していました。
パンを求めて来た人々への問いかけ
奇跡を目の当たりにした人々は「まことに、この方こそ世に来られるべき預言者だ」と言い、イエス様を王にしようとしました。しかしイエス様はひとりで山に退かれました。
翌日、群衆はイエス様を探して湖を渡り、カペナウムまでやってきました。するとイエス様は言われました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」十二のかごに込められたしるしの意味ではなく、お腹が満たされた体験だけを求めてついてきた。イエス様はその本質を見抜き、はっきりと告げられたのです。
そしてこう続けられました。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」今日食べれば明日にはなくなるパン。しかしイエス様が指し示されたのは、決してなくならない命の糧でした。十二のかごはイスラエル十二部族を指し、イエス様は彼らが気づくことができるよう、奇跡を通して示しておられたのです。
わたしがいのちのパンです
群衆はさらに求めました。「モーセは荒野でマナを降らせた。あなたも同じしるしを見せてください。」するとイエス様は言われました。「モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、まことのパンをお与えになるのです。」
マナを食べた先祖たちは、やがて死にました。しかし天から降りてきたまことのパンを食べる者は、永遠に生きるのです。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
群衆が期待したのは、モーセのように天からパンを降らせる者でした。しかしイエス様はすでにご自身が、父なる神様から与えられたパンそのものでした。物質的な糧ではなく、永遠のいのちに至る糧として、この世に来てくださったのです。
ヨセフの子イエスという躓き
「わたしは天から下って来たパンです」というイエス様の言葉に、ユダヤ人たちはつぶやき始めました。「これはヨセフの子のイエスではないか。父も母も知っている。なぜ天から来たなどと言うのか。」幼いころから知っている顔、知っている家族。その「知っている」という感覚が、目の前の真実を見えなくさせてしまいました。
一方、新約聖書には対照的な人々が登場します。長血を患う女性はイエス様の衣の裾に触れるだけで癒されると信じ、ローマの百人隊長は「言葉だけで十分です」と言い、カナンの女性は「犬でも食卓のおこぼれに預かれます」と言いました。彼らはユダヤ教の知識もメシヤ預言の背景も持っていませんでしたが、ただまっすぐにイエス様を見つめ、信じました。イエス様がその信仰に深く感嘆されたほどです。
知識があることと、霊的に開かれていることは別のことです。「自分たちはよく知っている」という確信が、本当に大切なものを見えなくさせることがあります。信じる心は知識や努力だけでは生まれません。それは父なる神様から与えられる恵みなのです。
「これはひどい言葉だ」――躓きと離反
イエス様はさらに言われました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはありません。」この言葉に多くの弟子たちが「これはひどい言葉だ」と言い、離れて行きました。
当時のユダヤ人にとってこれは二重の衝撃でした。旧約律法では血を飲むことは厳しく禁じられており、人の肉を食べるという概念はそれ以上のタブーだったからです。しかしイエス様はこう続けられました。「いのちを与えるのは御霊です。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」
アラム語で「血」は命そのものを意味します。イエス様が言われたのは文字通りの肉と血ではなく、「わたしの存在と命を、まるごと受け入れなさい」ということでした。後に教会では聖餐式というかたちで、パンと杯を通じてキリストを記念する礼拝が生まれました。イエス様の存在と命を信じて受け入れること。それがこの言葉の核心です。
主よ、わたしたちはだれのところへ行けましょう
多くの弟子たちが離れて行くのを見て、イエス様は十二弟子に問いかけられました。「あなたがたも去りたいのですか。」するとシモン・ペテロが答えました。「主よ、わたしたちはだれのところに行けましょう。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
ペテロがイエス様の言葉を完全に理解していたかというと、おそらくそうではありませんでした。この後もペテロは何度も躓き、「命を捨てても従います」と言った夜に三度否認するほどです。それでもペテロは「ほかに行くところがない、あなたしかいない」と言いました。理解が先ではなく、信頼が先。これが信仰の本質です。
神様の真理は一度に全部与えられるものではありません。イエス様は宣教の旅の中で弟子たちに信仰の種をまき続けられました。その種は、十字架・復活・聖霊降臨を経て、ようやく実を結びました。わからなくてもいい、今すぐ全部理解できなくてもいい。ただついていくこと、信頼すること。理解は後から必ずついてきます。
あなたがたのうちのひとりは悪魔です
ペテロの告白の直後、イエス様は静かに言われました。「わたしはあなたがた十二人を選んだのではないですか。それなのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔です。」これはイスカリオテのユダのことでした。
ユダは十二弟子のひとりとして、イエス様とともに旅をし、奇跡を見、教えを聞いてきました。最初から裏切るために来たわけではなかったはずです。しかしイエス様は、ユダが後に自分を裏切ることを最初から知っておられました。それでもイエス様はユダを選び、三年間共に歩まれました。
ユダの裏切りもまた、父なる神様の救いの計画の中にあったからです。人間の弱さも、躓きも、裏切りさえも、神様の計画を止めることはできません。ユダの最後がどうであったか、それは神様のみぞ知ることです。しかしひとつだけ確かなことは、イエス様の憐れみは、私たちの理解をはるかに超えているということです。
わたしを見たのは父を見たのです
五千人を満たした十二のかご、永遠に至る命のパン、肉と血という躓きの言葉、離れていった弟子たち、ペテロの告白、そしてユダの裏切り。ヨハネ6章はこれだけ多くの出来事と問いかけを含んでいます。しかしこの章を貫く一本の線があります。
人々はイエス様を「ヨセフの子」として見ました。目に見える人間として、パンを与えてくれる預言者として見ました。しかしイエス様はこう言われました。「神から来た者だけが父を見たのです。」イエス様をどう見るか。その見方が、信仰の分かれ目でした。
目に見えるものだけを求めた人々は躓き、離れていきました。一方でペテロは完全に理解できていなくても「あなたしかいない」と言い、異邦人たちはただまっすぐにイエス様を見つめ、信じました。理解が先ではありません。信頼が先です。ただイエス様を見つめること、そこから信仰は始まります。そしてイエス様を見る者は、父なる神様を見るのです。