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伝道の書3章「またあおうね」
伝道の書とは
伝道の書は、ソロモン王が書いたという伝統的見解がありますが、ソロモン王の名前が出てこず、また、伝道の書が書かれたヘブライ語もソロモン王が活躍した時代の古典ヘブライ語ではないからです。
また、内容も「世界は理不尽」、「知恵も虚しい」、「正しい者が報われない」、「労苦は風を追うようなもの」、まるで現代日本のようでもありますね、ソロモン時代は国家が上がり調子だったので、明らかにメンタルが異なります、これは絶対違う人が違う時代に書いたものだと思われるわけです。
現代風に言えば、伝道の書は
「もし、ソロモンが、知恵・富・権力をすべて手に入れた“後”に人生を総括したら、こう言うのではないか」
という、歴史的人物を語り部にした哲学エッセイ、「最強ステータスの人間ですら、人生は虚しい」という実験
という位置づけになります。
この書は特定の誰かではなく「知恵を求める者たち」、「ユダヤ人共同体」、「すべての人々」に対して書かれています。
この書物が書かれた当時は、ユダヤ人がバビロンに囚われた時期があり、そこから解放された後、ペルシャ帝国の支配下、かつての栄華を誇ったダビデ王朝は回復していない。
神様から約束の地を与えられ、星の数ほどその数が増えると約束されたのに、現実はとても苦しい、虚しい、正しい人が苦しみ、悪人が栄える、そんな時代でした。
「神様は本当に正しいのか?」
「人生に意味はあるのか?」
「死後はどうなるのか?」
おそらく、当時のユダヤ人達はこのように悩み、苦しんでいたことでしょう。
伝道の書は、これらの問いに正面から向き合い、明確な答えは避けつつも、神様を畏れなさいと教える書なのです。
- 人の限界を示す(知恵も富も権力も、究極の答えを与えない、神様の視点抜きでの人の限界、人の傲慢)
- 偽りの希望を打ち砕く(成功すれば幸せ、善人は祝福される、安易な楽観主義)
- 正直な信仰への招き(きれいごとではない信仰、疑問を持つことの正当性、神様への誠実な格闘)
- 神様への畏れへの導き(不確実性の中での信仰、全体が見えていなくても神様を信頼する)
伝道の書を読む上での鍵
- 「空」(くう)の意味がわかる
- 虚無主義ではない
- 虚しいと言っているが、それは虚しいと断定しているのではなく、はかなさ、不確実性の中での信仰が問われている
- 矛盾する記述の意味がわかる
- 「楽しめ」と書かれていたり「すべては空」とかかれていたり
- どちらも真実、その中で生きていかなければいけない
- 「誰が知っているか?」の意味が明確に
- コヘレト(伝道の書)は断定しない
- わからない事はわからないと言う誠実さ
- 神様への信頼が大切であるという教え
伝道の書はとても難解な書物です、しかし、最初の1回目で3%理解できればそれで大丈夫、また色々な聖書の箇所を学んで2回目読むと、今度は5%、次は8%、10%と、消費税!!
閑話休題
伝道の書1章
伝道の書1章は、ダビデ王の子、ソロモン王の語りから始まります。
彼は、「日の下」つまり、神様抜きの人の視点からみた世界はこのようなものだと説明します。
人の人生とはとてもとても、虚しいものである。
額に汗して毎日働いても、無情に太陽は巡り、風は吹き、川は海へ流れていき、そして、何も変わらない。
人は全ての事に疲れ、何を見ても、何を聞いても満足する事ができない。
毎日は同じことの繰り返しで、ずっとそれが続いている。
あなたは名前を覚えられる事もなく、そのまま忘れ去られてしまう。
わたしは世の中の全ての事を知恵を尽くして調べたが、とても苦しい仕事だった。
失ったものは消え去り、二度と戻る事もない。
わたしは「多くの全ての知識を得る事ができた」と心に誇り、また、狂気と愚痴を知ろうとしたが、空虚なものだった。
知恵を得るほど、それらのものは虚しいとわかってしまうからだ。
伝道の書2章
2章では、ソロモンは「楽しさ・成功・知恵」をすべて試しましたが、それでも虚しさは消えなかった、と語ります。
伝道の書3章
ソロモンは語ります。
伝道の書3章1節
1. 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
3章1節でソロモンは視点を変え、人間には虚しく見える出来事にも、神様の側には「時」があることを示します。
人は自分で「時」を選ぶことができず、神様のなさることの全体を知ることもできません。
だからこそソロモンは、永遠を見通そうとするのではなく、与えられた「今」を、神様の賜物として受け取りなさい、と語ります。
そして、また語ります。
永遠はわからない。
だからこそ、与えられた「今」を神様の賜物として感謝して受け取れ、と語ります。
わたしたちは、神様を畏れなければなりません。
人の世界
ここで、ソロモンは再び、「日の下」、人間が見渡せる世界の中に目を向けます。
この世の中は不正に満ちていました。
ソロモンは思いました。
「神様はその全てのご計画を定められたのだから、悪いものも正しいものも裁くだろう」
裁きにも時があり、悪が栄えても、必ず神様のご計画でそれは裁かれます。全てのことには時が定められています。
また、伝道の書の記述は続きます。
神様は人を、
寿命に限りがあり、
理不尽なことが起こり、
死が避けられず、
努力が必ずしも報われない、
そんな世界の中に置かれました。
そして、人の子らに起こることは獣にも起こる。
一つのことが彼らに起こる。
これが死ぬように、あれも死ぬ。
人には知恵があり、意味を求め、永遠を思う心がありますが、
死は避けられず、未来はわからず、自分の身におこる結末を支配できない。
その点では獣と変わらないのです。
神様は、そのことを、説明しませんし、答えを与えません。
ただ、時を与え労苦を与え死を与え理不尽がおこる事をを許しました。
そして人が、
「あれ?自分は世界を理解できていない」
「意味があると思っていたのに何もコントロールできない」
と自分で悟らせるようにしたのです。
伝道の書は
「人は理性で世界を支配できる」
「知恵があれば答えに届く」
「正しさは必ず報われる」
「人は特別で、死を超えられる」
全て幻想だと、教えています。
神が人を現実の中に置き、死の前では人も獣も同じだと悟らせ、人間の限界を自覚させたのです。
知恵があるからこそ人はより苦しみますが、だからこそ、それを悟った時に初めて神を畏れる位置に立つ事ができます。
またあおうね
伝道の書3章21節
21. だれが知るか、人の子らの例は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
この箇所、読み方によっては、人の魂は天国にいけるが、動物の魂はいけない。と教えてるように見えます。
ですが、伝道の書を1章から読み進めていくと、この書物は神様の成される事は一貫して「わからない」事として、何一つ断定していません。
ここは、「人の魂や、動物の魂はどこに行くのか、誰も知らないだろう」と解釈することができます。
それは、神様だけが知っている事で、私達には決して知る事のできない事です。
あなたの大切な小さな家族
わたしが住まわせていただいている、この日之影キリスト教会には、とても小さなカワイイ家族がいます。
3年ほど前に野良猫だった小さな赤ちゃん達、最初はそのつもりではなかったとの事ですが、やがて、この教会の中の家族の一員となりました。
言葉は通じませんが、長い間一緒に過ごしていると一緒にいる時間が長くなり、くつろげばお膝にのってくる、お布団に入れば一緒に眠りにつく、なくてはならない、大切な存在へとなっていました。
ネコチャンはとても大好きです、わたしが日之影に移住してくる前、大阪に住んでいた頃に一緒に住んでいたネコチャンがいました。
仕事が忙しく、あまり家にいないため、ストレスで病気になったので、お母さんにお願いして日之影に引き取ってもらいましたが、野良猫ちゃんと喧嘩した怪我が原因で亡くなりました。
ショックで1年は立ち直れませんでした(草)
今の心配事は、お母さんと今のネコチャンたち、いまは一緒にいますが、やがて、みんなわたしより先に旅立っていきます。
みんな、またいつか、会えるかな?
いつか、わたしがこの世界での役目を終えて天国に帰るとき、また会えるかな?
それは、わたしにはわからない事ですが、でも、神様は全てを良い事としてくださることなので、わたしは、ただ、神様に、またいつか、天の国へ帰った時にまた合わせてくださいますよう、お願いします。
そうお祈りして、そして、神様を信じて、信頼して、また会える事を楽しみに、神様と向き合い、神様に立ち返り、生きていければと思います。
またあおうね。