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出エジプト記20章「神様の御座に大胆に近づく」
出エジプト記20章21節
21. そこで、民は遠く離れて立ったが、モーセは神のおられる濃い雲に近づいて行った。
イスラエルの民たちは、モーセを通してエジプトからシナイ山へ導かれ、そして十戒を授けられました。
イスラエルの民たちは、神様の圧倒的な臨在による雷・稲妻・ラッパの音・山の煙に恐れをなし、逃げ出しそうになるところを、神様による訓練の賜物で踏みとどまることができました。
しかし、恐怖のあまり、彼らはモーセに「わたしたちの代わりに神様にお話を聞いてきてください」とお願いし、モーセは「恐れてはいけません、神様はあなたたちが罪を犯すことのないように来られたのですよ」と、イスラエルの民たちを励ましました。
モーセはそうして、神様のおられるところ、神様のご臨在である濃い雲の方へと進んでいきました。
イスラエルの民たちは、離れたところに立っていましたが、恐怖の中にありながら、そこに踏みとどまりました。
さて、このイスラエルの民の「遠く離れて立った」という表現が、前回お話した18節の「遠く離れて立った」と、今回21節の「遠く離れて立ったが」と二回登場します。
同じ内容に見えますが、ヘブライ語だとこのようになります。
18節
וַיַּעַמְדוּ מֵרָחֹק
ヴァヤアムドゥ・メラホーク
- ヴァヤアムドゥ = そして立った(複数形・完了形)
- 意味: 「(彼らは)立った」(一度の動作)
21節
וַיַּעֲמֹד הָעָם מֵרָחֹק
ヴァヤアモッド・ハアーム・メラホーク
- ヴァヤアモッド = そして立った(単数形・継続相)
- 意味: 「立ち続けた」「立ち留まった」
18節では、最初の反応で、震えて民は後退します。
19-20節でモーセとの対話で、民は少し落ち着きます。
21節、モーセが雲に向かうのを見て、改めて距離を保って踏みとどまる決意を持ちました。
これは、最初はパニック的反応を起こしたが、次には意志的な決断を持った、つまり、民の霊的成長があったということです。(注1)
21節のヴァヤアモッドは、一瞬の行動ではなく、決意をもって、持続的な姿勢で踏みとどまり続けたのです。(注2)
※注(注1)
ここで述べている「霊的成長」は、歴史記述としてテキストに明示されている事実というよりも、物語の展開と対話の流れを踏まえた神学的・説教的解釈です。出エジプト記の本文自体は、民の内面の成熟を直接描写してはいませんが、恐怖による混乱から、距離を保ちつつも踏みとどまる姿勢へと変化している点に注目しています。
※注(注2)
ここで用いられているヘブライ語 וַיַּעֲמֹד(ヴァヤアモッド) は、文法的には物語叙述形であり、必ずしも継続相を明示する動詞形ではありません。ただし、18節から21節に至る文脈全体を見ると、民が一時的な反射行動として後退したのではなく、「距離を保ったまま立ち続ける態度」を選び取ったと読むことが可能であり、本メッセージではその文脈的理解に基づいて解釈しています。
仲介者モーセ
一方、モーセは神様のご臨在である濃い雲へ近づいていきます、離れて立つ民に対して近づいていくモーセとの対比が、仲介者との必要性を際立たせています
ここがよくわかりませんね、なぜ、モーセが神様に近づく事と、イスラエルの民がそこから離れて立つ事の対比が仲介者との必要性を際立たせているのでしょうか?
[神の濃い雲]
↑
| ← モーセが近づく(ニガシュ)
|
[モーセ]
|
| ← この距離が「仲介の空間」
|
↓
[民は遠く離れて立つ](メラホーク・アモッド)
モーセは神様に近づいていきます(ニガシュ)
民は遠く離れて立ちます(メラホーク・アモッド)
何が「際立つ」のか?
それは、民と神様との間に「橋渡し役」が絶対に必要だという事実です
もし、仲介者がいなければ(注3)
- 民は神様に近づけない(恐怖で死ぬ)
- 神様の言葉は民には届かない
- 契約関係が成立しない
つまり
- 民は遠くに立つしかできない(限界)
- 神様は近づけない場所におられる(聖なる距離)
- モーセはその間を行き来できる唯一の存在
この「三者の位置関係」が視覚的に描かれることで、「あ、モーセがいないと、神様と民は繋がれないんだ!」ということが目に見える形で示されているのです
もし、モーセがいなかったら? 民は神様に近づけません。 神様の言葉も民に届きません。
モーセは神様と民の「橋渡し」をしています、これが「仲介者」の役割です。
聖書はこの場面を視覚的に描く事で、「仲介者がいなければ、神様と人とは繋がれない」という心理を教えています。
わたしたちと、神様とは、燃え盛る炎や雷、触れると死んでしまう境界の設けられた、そのような間柄なのでしょうか。
※注(注3)
古代近東における契約儀礼では、神と民、あるいは宗主と従属者の間に、仲介者や代表者が立つ構造が一般的であり、シナイ契約もその文化的背景の中で理解することができます。
旧約から新約の時代へ
ヘブル人への手紙12章18~24節
18. あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、
19. また、ラッパの響きや、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。
20. そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。
21. その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。
22. しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、
23. 天に登録されている長子たちの境界、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、
24. 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
ヘブル人への手紙の著者が言いたい事は、イスラエルの民達がかつて体験した「恐ろしい神様の臨在」、わたしたちクリスチャンは、もうそこに近づいているのではありません。
旧約モーセの時代から、新約イエス様の時代になると、神様がご臨在される山は、触れると死ぬシナイ山ではなく、霊的な生ける神様の都、シオンの山となりました。
そこにはイスラエルの民達が恐怖して踏みとどまった恐ろしい稲妻や雷、ラッパの音に山の煙もありません。
ヘブル人への手紙4章14-16節
14. さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する進行をかたく守ろうではないか。
15. この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。
16. だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時期を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
そこは天上のエルサレム、喜びの集い、完全なる新しい契約の仲保者であるイエス様がいらっしゃいます。
イエス様は神様の子で、罪を一度も犯さなかった方ですが、わたしたち人間と同じ苦しみと試練にあわれました。
ヘブル人への手紙では、ですから、神様の御座に大胆に近づく事ができるよと、そう書かれています。
神様の御座に大胆に近づく
出エジプト記20章の教えでは、神様はとても大きく、偉大で、ご臨在がとても激しく見えました。私たちはそれをみて恐怖しますが、逃げずにそこで踏みとどまる事が、それが信仰の第一歩でした。
でも、踏みとどまるだけでは不十分で、神様には近づけません。ですから、仲介者が必要でした。
新約時代になると、イエス様がこの世に生まれてくださいました。
イエス様は神様ですが、人間と同じ苦しみと試練に会われ、そして、生きた完璧な聖なる供え物としてわたしたち全ての罪を贖われました。
イエス様のおかげで、わたしたちは神様から「遠く離れて立つ」必要がなくなりました。
恐怖ではなく、愛と信頼で神様に近づけるようになりました。
大胆に祈れるようになり、礼拝を捧げる事ができるようになりました。
イエス様は、十字架で、私達の罪を全て背負ってください、神様の正義が満たされ、私達は「義」と認められました。
そして、イエス様は今でも天の国でわたしたちのために執り成しの祈りを祈ってくださっています。
イエス様は、私達を神様に紹介してくださっています。
そして、神様が聖霊を注いでくださり、わたしたちの心を満たしてくださっています。
だから、神様を「恐れる」のではなく、神様を「畏れ」、そして大胆に感謝の祈りを捧げましょう。
お祈りいたします。