8509e32342df21054b9b7bdc9ab45003
出エジプト記20章「キリスト・イエスにあって満たされる」
あなたは盗んではならない
出エジプト記20章15節
15. あなたは盗んではならない。
この十戒の第八の戒めは、ヘブライ語原文では「ロー・ティグノーヴ(לֹא תִּגְנֹב)」と書かれます。この後でも説明いたしますが、直訳すれば「あなたは盗んではならない」となりますが、ここに「こっそりと奪うな」「欺いて盗るな」というニュアンスが含まれています。
- ロー(לֹא) … 「〜してはならない」(禁止)
- ティグノーヴ(תִּגְנֹב) … 「あなたは盗むだろう」(2人称単数、未完了形)
非常に簡潔な命令で、わずか2語で構成されています。
「ティグノーヴ」は盗むの基本形である「ガーナヴ(גָּנַב)」が変化したもので、聖書においては単純な「物を盗む」以上の意味を持っています。
主な用法
- 秘密裏に取る、こっそり奪う … 公然とした強奪「ガーザル(גזל)」とは区別される
- 人を盗む … 誘拐、人身売買(出エジプト記21章16節、申命記24章7節)
- 心を盗む … 欺く、だます(創世記31章20・26節でラバンの心を盗んだヤコブ)
- 不正に得る … 権利や名誉、時間なども含む
また、十戒の第八戒(この戒め)と第十戒は、ヘブライ語でそれぞれ次のように書かれます。
十戒での特殊性
- 第八戒 … ロー・ティグノーヴ(לֹא תִּגְנֹב)「盗んではならない」
- 第十戒 … ロー・タハモード(לֹא תַחְמֹד)「むさぼってはならない」
これらの戒めには、具体的な目的語がありません。
これは意図的なもので、適用範囲を限定しないためだと多くの学者が指摘しています。
聖書学者の解釈
伝統的なユダヤ教解釈において、十戒の文脈を読み解きますと、この戒めは主に「人を盗むこと」(誘拐)を指すという解釈が強くなります。その理由としては、
- 十戒は命に関わる重大な罪を扱っている
- 出エジプト記21章16節で「人を盗む者は必ず死刑」とある
- 十戒の他の戒めも死刑に値する罪である
一方、現代の聖書学者の見解では、より広い解釈を取る傾向にあります。
- あらゆる形態の盗み(物、人、権利、時間、名誉)
- 隣人の所有権への侵害全般
- 神様が定められた秩序への違反
他の「盗み」を現す語との違い
- ガーザル(גזל) … 暴力的な強奪、公然とした略奪
- ガーナヴ(גנב) … 秘密裏の盗み、欺きを伴う不正取得
このことから、冒頭でお話ししたように、「ロー・ティグノーヴ(לֹא תִּגְנֹב)」は「こっそりと、欺いて、不正に他者のものを奪うな」という、より狡猾な罪を禁じていることが分かりますね。
このように、第八戒は「盗み」という行為を超えて、人の尊厳や神の秩序を侵すすべての不正を含む戒めであり、かなり包括的ともいえます。
段階的な罪の進行
ヤコブの手紙1章14~15節
14. 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
15. 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
ヤコブの手紙では「欲望がはらんで罪を生む」という原理が語られています。十戒はこの原理を先取りしていたのです。欲に引かれ、誘われることで第十戒の戒めを破り、そして罪が熟することで実行に移すか偽証することで、それぞれ第八戒、第九戒を破ることになるのです。
本日は第八の戒めについてのメッセージですが、正しく理解するために、第九・十の戒めにも触れていきます。
罪は、外側の行いから始まるのではなく、心の奥から流れ出すものです。
第十戒「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」
ここでは十戒の順番を逆にたどり、心から行動へと、罪の流れを見ていきましょう。
最初の第十戒の戒めでは、次の事柄を指しています。
- まだ行為になっていない欲望
- 心の中の貪欲を禁止
- 盗みや偽証の根源を扱う
この通り、内面や動機に関する戒めとなっており、心の中の欲が出発点となる罪を現しています。
第九戒「あなたは隣人について偽証してはならない」
第九戒は言葉と社会的正義に関する戒めで、次のような事柄を指しています。
- 法廷での偽証
- 言葉による隣人の財産・名誉・命の盗み
- 社会制度を通じた不正を禁止
- 偽証で土地を奪う、無実の人を有罪にする等
このように、欲に誘惑された人は言葉で罪を外に表します。
第八戒「あなたは盗んではならない」
第八戒は行為そのものに関する戒めです。
- すでに実行された盗み
- 物理的な所有権の侵害
- 外的な行動
心の中の欲が出発点となり、言葉によって外に現れ、ついに行為として罪は実を結びます。
三つの戒め
「盗む」という行為は、欲望に誘われ、汚れた言葉が口から出て、ついに行動に移されるものです。
その過程は、欲・言葉・行動のすべてを巻き込みながら、いくつもの罪を積み重ねていきます。
盗みとは、ひとつの行為に見えて、実は人の内側と外側を同時に汚す、非常に重い罪なのです。
神様は、人の罪がどのように生まれ、広がっていくのかを私たちに教えるために、「盗み」「偽証」「むさぼり」を三つに分けて戒めとされました。
それぞれの戒めは別の罪を扱いながらも、互いに連動し、ひとつの真理
――「罪は心から始まり、言葉を経て、行為に至る」――
を示しているのです。
この三つの戒めは、それぞれが別々の罪を扱いながらも、人の罪の流れを立体的に映し出しています。
神様は、私たちの行いだけでなく、心の奥にある動機までもご覧になっておられるのです。
off topic
言ってしまえば、神様による霊的なMVC設計です。心(Model)→言葉(View)→行為(Controller)
まさに!!戒めのMVCデザインパタン!!
古代イスラエル社会における「盗み」
では、古代イスラエル社会における「盗み」とはどのようなものだったでしょうか。
当時の社会構造と所有権の重要性
古代イスラエルは、遊牧生活から農耕生活へと移行する過程にありました。出エジプトの後、約束の地カナンに定住したイスラエルの民は、家畜(羊、山羊、牛)と土地(ぶどう畑、オリーブ畑、麦畑)を主要な財産としていました。
これらの財産は、単なる個人の富ではなく、家族全体、さらには部族全体の生存に直結するものでした。一頭の羊を失うことは、家族の食料や衣服の喪失を意味し、土地を奪われることは、代々受け継がれてきた相続地を失うことを意味していたのです。
共同体における盗みの影響
古代イスラエルは、個人主義的な社会ではなく、家族・氏族・部族という強い絆で結ばれた共同体社会でした。一人の盗みは、被害者個人だけでなく、その家族、そして共同体全体の信頼関係を損ないます。
出エジプト記21章16節では「人を盗む者は、必ず死刑に処せられなければならない」と定められています。これは、人を奴隷として売買することが、その人の人生全体、家族全体を破壊する重大な罪だからです。十戒の文脈では、この「人を盗むこと」も第八戒に含まれていると、多くの学者が解釈しています。
このように「盗むな」という戒めは、単なる物の奪取にとどまらず、共同体の信頼と命そのものを守るための神の警告であったのです。
神様はなぜこれを十戒の一つとされたのか
神様は、なぜこの戒めを十戒の一つとされたのでしょうか。
「盗むな」と命じられたのは、単に行動を制限するためではなく、惜しみなく与えてくださる神様のご性質を映すためです。
神様は奪う方ではなく、与える方です。
創世記で人に地を委ね、必要なものを与えられたように、神様はすべてのものの所有者でありながら、それを惜しまず私たちに分け与えてくださいました。
私たちが「所有している」と思っているものは、実は神様から委ねられているものなのです。
ピリピ人への手紙4章19節
19. わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。
盗む必要はありません。なぜなら、神様が私たちの必要を満たしてくださるからです。
盗みとは、与えて下さる神様を信頼していないことの現れでもあります。
「盗んではならない」という戒めは、私たちが神様の性質を映し出し、隣人を愛し、神様の恵みに信頼して生きるための祝福の道しるべなのです。
満たしてくださる神様
ヨハネによる福音書7章37~38節
37. 祭の終わりの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
38. わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。
この箇所は、ユダヤ教の祭りに行われる水を汲む儀式があったとされ、イエス様はこの水の儀式のイメージを用いて、ご自身こそ「生ける水」を与えるお方であることを示されました。
この「生ける水」、「流れ出る川」という言葉は信じる者の内にある聖霊の働きや、湧き出る命の働きとして捉えられており、「渇いた者が来る」=「信じる者が来る」という構図を通じて、信仰=水を飲むというイメージが重ねられています。
そして、「その腹」はギリシヤ語で「コイリアス(κοιλίας)」と書かれ、「内側深くから」→「心・魂の奥から」→「新しい命として外に流れ出るもの」と解釈することができます。
あなたは今、何に渇いていますか?
- 物質の渇き … 手の中に何もなく、明日の糧を求める渇き
- 心の渇き … 物はあっても、愛や承認を求める渇き
- 良心の渇き … 善悪の感覚さえ枯れ、魂が乾ききった状態
これらの渇きは、放っておけばやがて誘惑となり、盗みという罪へと私たちを導きます。
神様は与えてくださるお方です。
マタイによる福音書7章7~11節
7. 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
8. すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
9. あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
10. 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
11. このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
もし、心が渇いて苦しくなるとき、あるいは、間違った道へと引かれそうになるときには、神様にお願いしてみてください。
「神様、どうか私たちの必要を満たしてください。どうか私たちを助けてください。」
心から、神様を信じてお祈りしてください。
神様は尋ね求める方たちを決して見捨てる事はありません。
祈ってもすぐには変わらないことがあります。
けれども、その時間を通して私たちは、焦らず、あきらめず、希望を持つことを学びます。
神様は、結果だけでなく、その過程の中で私たちを育てておられるのです。
祈りは、神様の耳に届かないことはありません。
すぐに変わらなくても、その祈りの中で、私たち自身が変えられていくのです。
祈り求めましょう。強く、そして静かに、ただ神様を信頼して、祈り続けましょう。
お祈りいたします。