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出エジプト記20章「わたしはあなたの神です」

神様との契約

出エジプト記は、エジプトの地に寄留していたイスラエルの民が長い間奴隷として苦しめられ、神様の御業によってエジプトから救い出され、約束の地への歩みを記した物語です。

イスラエルの民は長い間のエジプトでの奴隷生活により、独立した民としての習慣を失っていました。神様に選ばれた民としてふさわしくなるため、神様は彼らに数々の試練を与え、訓練されました。

出エジプト記20章では、神様の山であるシナイ山で、神様がイスラエルの民と契約を結び、イスラエルが神様の民となるための掟をお与えになりました。映画「十戒」で有名な十戒そのものです。

今日は前編として、最初の三つの戒めを学んでいきたいと思います。

導き出したものである

出エジプト記20章2節

2. わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。

出エジプト記20章の序文にあたる箇所で、神様はまず自分が何者であるかを宣言されます。「わたしは、あなたたちをエジプトから導き出した神である」と。

神の一方的な恵み

イスラエルの民たちは、最初エジプトで繁栄していました。ヨセフの時代から約400年が経ち、人口は大幅に増加していました。しかし、それを見たエジプトの王パロは「いつか彼らはエジプトにとって脅威になるだろう」と恐れ、イスラエルを奴隷として苦しめ始めました。

突然奴隷にされた第一世代は、確かに辛く苦しい毎日を送り、この状況から逃れたいと願ったでしょう。しかし、世代を重ねるにつれて、奴隷状態が「普通」になってしまった人々もいたのです。

事実、モーセが最初にパロと交渉した時、パロは激怒してイスラエルの労働を重くしました。するとイスラエルの民はモーセに向かって「余計なことをしたせいで、ひどい目にあった」(出エジプト5:21)と文句を言ったのです。奴隷生活を続けていた方がマシだった、と。

エジプトを出てからも、イスラエルの民は何度もモーセに不平を言います。「エジプトにいた方がよかった。あそこでは腹いっぱい肉鍋を食べることができた」(出エジプト16:3)と。エジプトは確かに彼らを奴隷として苦しめましたが、組織的に管理し、必要な食料も与えていたからです。

「導き出した」という言葉の意味

ここで注目したいのは、20章2節で使われている「導き出した」という表現です。これはヘブライ語では「ヤツァ(יצא)」という動詞で、基本的に「出る」「出ていく」という意味です。もし神様が「救い出した」と言いたければ、「ヤシャ(יָשַׁע)」や「ナツァル(נָצַל)」といった、より明確に「救助」を意味する動詞を使うこともできたでしょう。

しかし神様は「導き出した」という、より中立的な表現を選ばれました。これは偶然ではありません。

なぜ全員を連れ出したのか

出エジプト記は、一見すると「奴隷となったイスラエルの民を神様が救い出す物語」のように見えます。しかし実際はそうではありません。神様は、イスラエル人の中に「このままでも構わない」「余計なことをしないでほしい」と思っている人々も含めて、全員をエジプトから連れ出されたのです。

なぜでしょうか。エジプトから脱出したい人たちだけを集め、残りたい人たちは残すという形にすれば、パロもここまで頑なではなかったかもしれません。お互いにとって「Win-Win」だったはずです。

答えは明確です。それがアブラハム、イサク、ヤコブとの約束だったからです。

神様は約束されました。「あなたの子孫を約束の地に導く」と。イスラエルの民は全て神の民であり、アブラハム、イサク、ヤコブと契約を結んだその子孫たちです。神様は一人も漏れることなく、この約束を守らなければならなかったのです。

恵みからは逃れられない

これは神様からイスラエルの民に対する一方的な恵みでした。彼らの功績や願いとは関係なく、神様の選びと約束に基づいた恵みです。

一人も漏れることなくこの恵みにあずかれるように、たとえ彼らの中に「余計なお世話だ」と思う者がいたとしても、神様の恵みからは決して逃れることはできません。ヨナのように逃げようとしても、神様は逃がしてくださらないのです。

神様は宣言されます。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した、あなたの神、主である」と。これは単なる過去の出来事の報告ではありません。「だからこそ、わたしはあなたの神なのだ」という、神と民との関係の宣言なのです。

十戒の土台

この宣言こそが、これから語られる十戒すべての土台となります。十戒は「救われるための条件」ではありません。「すでに救われた民が、どのように生きるべきか」の指針なのです。

神様との関係は、私たちの努力や功績から始まるのではなく、神様の一方的な恵みから始まります。そしてその恵みは、たとえ私たちが理解できなくても、時には「余計なお世話」だと感じても、決して私たちを手放すことはないのです。

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない

出エジプト記20章3節

3. あなたはわたしのほかに、何者をも神としてはならない

これは聖書における神様の根本的な宣言です。「主」はただ一人だけであり、イスラエルの民に対して「あなたがたの神はわたしだけです。決して、わたし以外の何物をも神としてはならない」と命じておられます。

古代世界の「神々のデパート」

出エジプト記の時代、主なる神以外に人間が「神」として造り上げた偶像は、いったいどれほどあったのでしょうか。

エジプトだけでも、太陽神ラー、創造神アトゥム、国家神アメン・ラー、猫の女神バステト、ジャッカルの頭を持つ冥界の神アヌビス、牛の女神ハトホル、ワニの神ソベク、ナイル川の神ハピ、風の神シュウ、死と再生の神オシリス、その妻イシス、復讐の神ホルス、戦いの女神セクメト、戦争の神モンチュなど、数え切れないほどの神々が存在していました。

数千年をかけてエジプトを支配する王朝が入れ替わるたびに、崇拝する偶像も変遷し、融合し、新たに生まれていきました。これらの神々について語るだけで、分厚い一冊の専門書ができるほどです。まさに古代エジプトは、日本の八百万の神に匹敵する圧倒的な多神教国家だったのです。

これらの偶像に共通するのは、目に見える、手で触れる、形のあるものだということです。人間にとって理解しやすく、ある意味で人の手によってコントロールできるという安心感がありました。

イスラエルの民の内なる葛藤

イスラエルの民は、ヤコブ、ヨセフの時代から受け継がれてきた、ただ一人の真の神への信仰を持っていました。しかし、400年間におよぶエジプト生活の中で、彼らは周囲の偶像に慣れ親しみ、深く影響されていました。

特に、雌牛や雄牛をはじめとする動物神への信仰は、エジプト人の偶像礼拝の特色でした。イスラエルの民も、この動物崇拝から相当大きな影響を受けていたようです。

実際、出エジプト記32章では、イスラエルの民は「神様に従います」と約束したその口で、金の子牛の像を造り上げてしまいます。そして驚くべきことに、この偶像こそが「われわれをエジプトから救い出した神である」と宣言し、いけにえまで捧げる暴挙に出たのです。

人間に共通する「偶像病」

使徒行伝17章27-30節には、この問題の本質が記されています:

27 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見出せるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりひとりから遠く離れておいでになるのではない。
28 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』
29 このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、みなすべきではない。
30 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。

ここから分かるのは、人間には神を求める本能的な渇望があるということです。神様はコヘレトの言葉(伝道者の書)3章11節にあるように、「人の心に永遠を置かれた」のです。

しかし皮肉なことに、神様は私たちから遠く離れておられるのではなく、むしろ「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」ほど近くにいてくださるのに、私たちは目に見えず、声も聞こえない神様に不安を感じてしまうのです。

革命的な教え

十戒の第一戒「わたしのほかに、何者をも神としてはならない」は、現代のキリスト教徒にとっては当然の教えに聞こえるかもしれません。しかし、数千の神々に囲まれて生活していたイスラエルの民にとって、これはまさに「そうだったのか!」と衝撃を受けるほどの革命的な宣言だったのです。

私たちは今でも、心の渇きを潤すために、分かりやすく、目に見え、手で触れることのできる「神様」を求めてしまいがちです。現代では、お金、成功、人間関係、テクノロジーなど、形は変わっても私たちは様々な「偶像」を造り続けています。これはまさに人間に根差した根源的な病気、「偶像病」と呼べるものなのかもしれません。

希望の光

しかし希望もあります。金の子牛事件の時、レビ族は偶像礼拝に加わらず、モーセの「だれでも、主につく者は、私のところに」という呼びかけに応えました。神様への忠誠を貫く人々は、どの時代にもいるのです。

「偶像病」の処方箋

「偶像病」に対する神様の処方箋は明確です。それは、目に見えない神様をただ一人、私たちの神様として信じることです。手で触れることはできなくても、心で感じることができる。声は聞こえなくても、御言葉を通して語りかけてくださる。形はなくても、愛によって私たちを包んでくださる。

そのような神様だけを、私たちの神として受け入れること。これが第一戒の真の意味なのです。

身近におられる神様

見えない神様の確かな臨在

神様は目には見えませんが、いつも私たちのそばにいてくださり、温かく見守ってくださっています。お祈りをすれば必ず聞いてくださいますし、悩みを打ち明ければ、心を込めて耳を傾けてくださいます。

使徒行伝17章28節にあるように、「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」のです。神様は私たちから遠く離れた存在ではなく、私たちの呼吸一つ一つ、心臓の鼓動一つ一つを支えていてくださる方なのです。

人間の不安と弱さ

しかし、ここに私たち人間の弱さがあります。神様の声は直接私たちの耳には聞こえません。目に見える形で現れてくださることもありません。そのため、私たちはしばしば不安になってしまいます。

「神様は本当にいらっしゃるのだろうか」
「神様は私たちの言葉に本当に耳を傾けてくださるのだろうか」
「もし神様がおられるなら、なぜ何も答えてくださらないのだろうか」

このような疑問や不安が心に湧き上がってくるのは、決して信仰が浅いからではありません。それは人間として当然の感情なのです。

偶像への誘惑

そんな時、私たちの周りからは魅力的な声が聞こえてきます。

「この悩みによく効く神社があるよ」
「このお守りを持っていれば安心だよ」
「この方法なら確実にご利益があるよ」

分かりやすい効能、目に見える結果、手で触れることのできる安心感。そうした即座の解決策に、私たちは心引かれてしまいます。

私たちは弱い存在です。目に見える、手に取れるものにすがりたくなるのは、ある意味で自然な反応なのかもしれません。

現代の偶像たち

神社やお守りもそうでしょう。パワーストーンや風水グッズもそうでしょう。そして時には、私たちクリスチャンにとって大切な十字架でさえ、同じような役割を果たしてしまうことがあるのではないでしょうか。

しかし、冷静に考えてみましょう。神社の建物の中に神様がおられるでしょうか。お守りの布切れや木片に神様の力が宿っているでしょうか。極論を言えば、十字架という木材や金属に神様がおられるでしょうか。

答えは明確です。神様はモノには宿りません。神様は物質的な制約を受ける方ではないのです。ただ、神様はそこに、ここに、どこにでもいてくださり、私たちを愛をもって見守っていてくださるのです。

本当に必要なもの

それでは、私たちに本当に必要なものは何でしょうか。それはお守りでも、パワーストーンでも、特別な場所でもありません。

私たちに必要なのは、目には見えないけれども、確かにそこに神様がいらっしゃると信じる心です。唯一まことの神が存在し、私たちを愛し、私たちの祈りを聞いていてくださると信じる心です。

人間的な言葉で表現するなら、「心の中に神様印のお守りを持つ」ことが必要なのかもしれませんね。それは手で触れることのできない、しかし何よりも確かな「お守り」です。

信仰という宝

物質的なものは何もいりません。形のあるお守りも、特別な場所も、魔法のような儀式も必要ありません。

必要なのは、そこに神様がいらっしゃる、神様が私たちの声を聞いていてくださる、神様が私たちを愛していてくださると信じる心。つまり、「信仰」があれば十分なのです。

信仰こそが、私たちと神様を結ぶ唯一の、そして最も確かな絆なのです。第一戒「わたしのほかに、何者をも神としてはならない」は、この信仰の大切さを私たちに教えているのです。

どんなに小さな信仰でも構いません。疑いや不安があっても構いません。ただ、「神様、あなただけが私の神です」と心から申し上げることができれば、それで十分なのです。

その時、私たちは本当の平安を、本当の喜びを、本当の希望を見つけることができるでしょう。なぜなら、私たちの神は生きておられ、私たちを決して見捨てることのない愛の神だからです。

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない

神様は十戒の第一戒として「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という言葉を定められました。

これは、誰かに言われたから、誰かを気遣って、誰かのためにということではなく、ただ、わたしと神様との関係、まっすぐ神様の方向を向く、神様も見て下さっているから、安心して神様を見て歩きなさい。

それだけで、何も心配事はなくなるよ、大丈夫、神様がいてくださるよ。

これは神様からの戒めでもあるけれど、神様が一緒にいてくださるよ。

という、わたしたちを元気づけてくれる言葉でもあると思います。

神様に感謝して、お祈りしたいと思います。