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マタイによる福音書5章「愛で報いなさい」

なぜなに聖書

わたしたちが普段教会で使う教科書として聖書があります。

この聖書の中に、イエス様はいったいどれくらい登場するでしょうか。みなさんご存じですか?

イエス様の登場される箇所

キリスト教の中心におられるのは、父・子・聖霊の三位一体の神様です。天におられる唯一の神様は「父なる神様」、人となってこの世にお生まれになったイエス様は「子なる神様」、そして目に見えずわたしたちの心に働きかけてくださるのが「聖霊なる神様」です。

子なる神様であるイエス様は、お生まれになる前から何度も「救い主が来られる」と旧約聖書で預言されていました。そして実際に人として登場されるのが、新約聖書の四つの福音書です。

  • マタイの福音書
  • マルコの福音書
  • ルカの福音書
  • ヨハネの福音書

この四福音書の中で、イエス様の生涯、教え、奇跡、そして死と復活が詳しく記録されています。

神様の子ですから、できないことは何もなく、あらゆるものに勝る全能の方です。しかしイエス様は、あえて人としての弱さをその身に受け入れてくださいました。痛み、悲しみ、空腹、怒り──わたしたちが経験するあらゆる感情を味わいながらも、ただの一度も罪を犯すことはありませんでした。

わたしたちと同じ人間の弱さを知りながら、しかし完全に聖い方。それがイエス・キリストです。

イエス様が公の伝道を始められたのは、およそ30歳になってからでした。

当時のユダヤ社会では、30歳前後は公的な責任を負うことのできる年齢とされ、祭司や教師、指導者としての働きを始める年齢でした。

こうした試練に遭いながら人として成長し、人間社会が定める成熟のラインをあえて踏まえたうえで、イエス様は伝道活動を始められました。

イエス様はガリラヤの全地を巡り歩き、神様の教えを説きながら、民たちのあらゆる病気をいやしてあげました。

多くの人たちは我々の待ち望んだ救い主メシアに違いないと思い、イエス様のあとをついていきました。

イエス様の山上の説教

イエス様は彼らにお話しをするために丘に登り、そこで人々に語り掛けました。

後に、「山上の説教」として世界的に有名なイエス様の教えです。

心の貧しい人々への「幸い」の宣言、敵を愛すること、そして主の祈りもここで語られました。

今日は特に有名な箇所についてお話いたします。

マタイによる福音書5章39~41節

39. しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人には手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
40. あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
41. もし、だれかがあなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい。

イエス様はなんと仰ったのか

右の頬を打つならほかの頬をも向けてやりなさい

1つずつ読み解いていきましょう。39節の『右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい』

まず、当時は聖書に登場するあらゆる地域がローマの支配下で、イスラエルを長年苦しめた大国であるエジプトすらもローマの属国でした。

ローマ帝国は自分たちを「秩序をもたらす」「文明の担い手」で「法と正義の執行者」と位置付けていました。

しかし、支配される側からは「圧制者」「異教の侵略者」「搾取するもの」でした。

メシアを待ち望んでいた人たちはイエス様がローマを倒し、自分達を救ってくれる事を期待していました。

しかし、イエス様は暴力的な革命ではなく、愛と非暴力的な抵抗を語られました。

『右の頬を打つならほかの頬(左)も』、これは、当時の文化で右の頬を打つのは手の甲で平手打ちが一般的で、格下の相手に立場をわからせる侮辱的な意味が込められていました。

ここで左の頬も打て。と返されると、利き手である右の拳で打つ事になります。

『その右の拳で殴れ、オレはお前と対等だ、オレを下に見るな、馬鹿にするな』

つまり、ローマ兵に侮辱されたなら、暴力に訴えずに相手と対等になりなさい。

と教えられました。

下着を取ろうとする者には上着をも与えなさい

『あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい』

ローマはアメリカのような世界の警察を気取るものでしたが、住民には重税を課し、不当に搾取していました。

人々は重税と貧困で借金を抱え、返せない人は裁判でその衣服を担保に取られ、公衆の面前で恥をかかされたのです。担保に取られるのは上着の内側の服です。

イエス様の教えは革命的でした。

下着を取られたなら、上着もやりなさい、と。

そう、つまり、スッポンポン、マッパ、全裸です!!

裸を見た方が恥をかく

当時の文化では、素っ裸になった側ではなく、素っ裸を見た側が恥をかく文化で、即ち、ローマの人が恥をかかされる事になります。

『おいみろよ、あいつ裸だぜ!』

『ひゅー、ひでぇもんだぜ、誰だよ、ひん剥いたの』

『人の心ないんか?』

こうして、公衆の面前に晒された取り立てる側が不正な搾取が暴露されるという形になります。

イエス様の教えは、実に知恵に満ちた非暴力的抵抗ですね、自分は寒さを我慢しなければなりませんが、暴力を使わずに相手の不正を暴くことができます。

1マイル行かせようとするなら2マイル

『1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい。』

ローマの法律では住民に1マイル荷物運びを強制できました。当時のローマでは1マイルは1.5Kmほどです。

イエス様は決して親切心で『2マイル行きなさい』と言ったわけではありません。

ローマの法律はとても厳格で、荷運びを強制できるのは1マイルまで、これを破るを罰を受けなければなりません。

『1マイル運べ。法律だ』

『はい、2マイル行きます』

『……え?』
『……え、ちょ、待っ』
『かんべんしてください!!』

住民はローマ兵から屈辱を受けますが、その制度の中でどうふるまうのか、1マイル行かされるのはローマの権力、しかし、2マイル行くのは自分の選択です。

イエス様は、不正と屈辱に満ちたこの理不尽な世界の中で、心折れずに自分の主導権を取り返しなさい。と教えられました。

愛で報いなさい

マタイによる福音書5章43~44節

43. 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
44. しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

イエス様のこの言葉によって、先ほどまでのローマ兵に対する考え方は、ここで大きく転換されます。

イエス様は、天の軍勢を呼び寄せて力で戦うこともできました。しかし、その道を選ばれることはありませんでした。

イエス様が捕らえられたとき、弟子が剣を抜いてローマ兵に斬りかかりましたが、イエス様はそれを制し、そのローマ兵の傷を癒されました。

イエス様は救い主としてこの世に来られましたが、その救いは、特定の人だけに向けられたものではありません。

住民を苦しめていた支配者ローマも、その対象から外されることはありませんでした。

迫害する敵すらも愛するというこの教えは、人の感情や力だけでは、とても届きません。

だからこそイエス様は、不正や屈辱に対して、怒りや暴力ではなく、愛と知恵をもって向き合う道を示されたのだと、そのように理解することができます。

神様助けてください

いま、わたしの心の中の「恨みノート」には何人かリストアップされています。なかなか消えません。

心を無にして忘れようとがんばります、ある日思い出し憎しみが再発し、自分自身が苦しみます。

神様、どうか良い知恵を与えてください、わたしの心に働きかけて、この汚い心を取り除いてください。

罪を犯さずに済むよう、どうかわたし自身を造り変えてください。

複雑な事情がある人もいます。超えてはならない一線を越えられた人もいます。大切なものを奪われた人もいます。

お前の言っている事は綺麗ごとだ、造り変えられたらもうそれは自分ではない、お前に何がわかる。

うん、そうだよね、とても辛い事があったんだね、ゆるせないよね。

でもね、神様にはできない事は何もないんだよ、あなたが失ったものや、奪われたもの、大切なものは、神様が全部とりもどしてくださるよ。

だからね、ただ、神様を信じて、神様にお祈りして、神様にお願いしよう。ただ、それだけだよ。

赦せなくてもいいよ、ただ、神様が助けてくれると信じようね、そしたら、神様が絶対なんとかしてくれるよ。

本当に憎い相手だからこそ、愛をもって報いるということは、それは、神様があなたの力になってくれることなんだよ。

わたしはそう信じて、わたし自身を変えてもらえるよう、お祈りしたいと思います。