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出エジプト記10-12章「救いに至る現代の過越し」

神様の最終警告

現代において十戒や海を割ったエピソードで有名なモーセでしたが、彼は口下手で引っ込み思案、現代日本からすれば老いを迎えたくたびれた人でした。

そんな彼も神様の計画に選ばれ、神様の権威を授けられました。

神様に励まされ、助けられ、モーセはイスラエルの民を救うという、神様のご計画を全うするため当時の絶対権力者であるエジプトの王パロ(ファラオ)と対峙し、そして「イスラエルを開放しなさい」と力強く語り掛けます。

パロは神様の権威を授けられたモーセと、その予言者アロンの手によって様々な神様から与えられる災いに苦しめられつつも、頑なに「いいや、イスラエルは開放しない」と首を横に振り続けます。

エジプトを襲った災いは「水が血に変わる災い」「カエルであふれる災い」「ぶよの災い」「あぶの災い」「疫病のわざわい」「はれものの災い」「雹のわざわい」「いなごの災い」「暗闇のわざわい」と、段々と強く、そして被害も深刻なものとなってきましたが、パロの心は頑なで、とうとうイスラエルを開放しませんでした。

パロは、モーセとアロンを呼び出し、こう言いました

「いいだろう、お前たちの言う主に仕えることを許してやろう、男だけではなく、子供もつれていっても構わない、ただし、家畜はダメだ、残していけ」

パロはこれまでも、何度も条件付きで「あなたたちの主に仕える事を許しましょう」と交渉してきましたが、神様のご計画では全てのイスラエル人が家畜と財産をもって出ることだったので、交渉は成りませんでした。

モーセは

「いいえ、パロ、あなたは私達がエジプトを出る時には神様に犠牲として捧げる家畜と燔祭のものを下さらなければなりません、家畜も当然連れていきます。わたしたちは、その場所に行くまでは何をもって神様に仕えるべきかわからないので、全てを持っていく必要があるのです」

「燔祭のもの」というのは、完全に焼き尽くして神に捧げる犠牲のことです。ヘブライ語で「オラー」と呼ばれ、動物(主に牛、羊、山羊など)を屠って祭壇の上で完全に焼き尽くす儀式でした。これは神への完全な献身を象徴する最も重要な祭りの一つです。

パロの妥協案というのは実はサタンの誘惑ともいえると思います。
お前たちの要求はのんでやるが、ただし、ここまでだ。賛成してくれるけど、条件付き、しかし、賛成してくれるなら・・・

実際、エジプトの最高権力者パロはモーセにとって怖い存在であったでしょう、せっかく妥協してくれてるんだから、その条件をのまないといけないだろう。普通の人ならそういう気にさせられます、しかし、神様のご計画のためにその誘惑を突っぱねる勇気は必要だったと思います。

血気盛んだった若い頃から老いを重ね、出エジプト記の始めでは「どうか他の人を遣わしてください」(出エジプト記4:13)と言っていたモーセが、このような場面では堂々とパロに立ち向かっています。神様との関係性が深まり、九つの災いを通して神の力を目の当たりにし、彼自身も霊的に成長していったことがわかります。

何度も神様からの災いをもたらし、そして自分に歯向かうこのモーセに対してパロはついに我慢の限界を迎えてしまいました

「おまえたち、わたしの前から消えろ、そして二度と現れるな、もし現れたらお前らの命はないぞ!」

パロは脅しをかけてモーセとアロンを追い返そうとしました、エジプトの最高権力者であるパロには怖いものはないはずでした、彼らも捉えて牢獄に入れたりなんでもできたはずですが、これまで何度も驚異的な災いがエジプトを襲い、そのたびに苦しめられてきた、彼らの「主」が怖かったのでしょう、去勢を張って追い返すので精一杯でした。

「その通りです。あなたの仰る通り、私はもう二度とあなたの前に現れることはありません」

そして、パロに言いました

「神様はこう仰られます

『真夜中頃、わたしはエジプトの中へ出ていくであろう、エジプトの国のうちのういごは、位に座するパロのういごをはじめ、ひきうすの後ろにいる、はしためのういごに至るまで、みな死に、また家畜のういごもみな死ぬであろう。そしてエジプト全国におおいなる叫びがおこるであろう。このようなことはかつてなく、また、ふたたびないであろう』と。

 しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間に区別されるのを、あなたがたは知るであろう。これらのあなたの家来たちは、みな、わたしのもとに下ってきて、ひれ伏して言うであろう

『あなたもあなたに従う民もみな出て行ってください』と。

その後、わたしは出て行きます」

モーセは神の権威に満ちた声で答え、最後の警告の言葉を残して立ち去りました。彼はもはやエジプトの最高権力者パロを恐れる者ではなく、全能の神の使命を帯びた預言者として、最後の最も恐ろしい災いの到来を知らせる使者となっていたのです。

パロは、いままでモーセが語ってきた神様からの災いが全て現実のものとなっていましたが、頑ななままでした。

最後のわざわいは、エジプト全土のすべての初めに生まれた子が死んでしまうというとても恐ろしい災いであるにも関わらずでした。

過越しの準備と過越し

神様は、モーセとアロンに、いろいろな決まり事を伝えました。

これは、神様が最後の災いのため、エジプト中を回るため、イスラエルに災いが及ばないよう、神様が過ぎ越してくださるための決まり事でした。

最後の災いは、エジプトを打つためのものでしたが、イスラエル人は無条件に対象外になるのではなく、神様の言葉に従う必要がありました。

その時の月を初めの月とし、正月としなさい

まず、その時の月を初めの月とし、正月としなさい

わたしたちの正月は1月の真冬ですが、聖書の中で書かれている「正月」はヘブライ語で「ニサンの月」と呼ばれていて、カレンダーでは3月下旬から4月にかけての春の時期になります。

過越しの出来事のあと、神様はニサンの月を宗教的な最初の月として制定されました。これは新しい始まりで、エジプトでの奴隷生活から解放された新しい人生の始まりを象徴するものとなっています。

各家庭で1頭の子羊をとって食べなさい

そして、各家庭で1頭の子羊をとって食べなさい、イスラエルの民は傷のない子羊を屠り、その血を門柱に塗ることで長子の死から守られました。

新約聖書では、イエス・キリストを「過ぎ越しの子羊」と呼んでいて、救い主のイエス・キリスト、イエス様を象徴しています。

旧約の時代では罪が贖われるためには羊の犠牲が必要でした、そして最後に神様の完全な救いが成就するために、イエス様が十字架にかかられ、血を流されました。

イエス様が十字架にかかられた時期というのは、この過越しの祭りの時期と一致しています。これは決して偶然なんかではありません、神様のご計画でした。

つまり、出エジプト記の最後の災いを過越してもらう出来事は、神様が将来、キリストを通して全人類のために行おうとしていた救いを予言するものでもありました。

子羊の地を門の柱とかもいにつけなさい

そして、とても大事なことです、子羊の地を門の柱とかもいにつけなさい。神様はそうおっしゃいました。

これは、神様がエジプトに災いをもたらすときに、このしるしを見て、その家は過ぎ越してあげよう、そうおっしゃいました。

出エジプト記12章12節

その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。

わたしは主である。

その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。

わたしがエジプトの国を撃つ時、災いが臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。

この神様のエジプトへの裁きは、おそらくこの世の最後に神様が全人類を裁かれる事の予行演習です。

神様からの裁かれないためには、この子羊の血を門の柱とかもいにぬらなければなりません。

新約聖書の時代には救い主である、主イエス・キリスト、イエス様が完全な犠牲として血を流されました。

わたしたちは、心に子なる神様であるイエス様を迎えて、わたしたちの為に血を流されて犠牲となったイエス様を迎えて、神様から裁かれないようにしなければいけないんですね。

種いれぬパンを食べなさい

パンの種というのは、現代で言うところの「イースト菌」です、聖書においてはパン種は罪や悪の象徴としても語られています。

コリント人への第一の手紙5章6節

あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたあ、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。

新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パンだねのない者なのだから。

わたしたちの過越しの子羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪のパン種を用いずにパン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

どうしましょう、わたしたち、種いりのパンをものすごく食べてますね、しかし、安心してください。

実際、過越しの祭りの間はユダヤ人は実際にパン種のはいってない「マツァ」と呼ばれる種なしパンだけを食べますが、霊的な意味がとても重要です。

つまり、パンの種類そのものより、イエス様によって与えられた新しい生き方を受け入れ、古い罪深い生活を捨てることがとても大切です。

心と生活の中から「罪の種」を取り除く、現代のクリスチャンはそのような生き方をしていかなければいけません。

第1日に聖会を、また第7日に聖会を開かなければならない

第1日に聖会を、また第7日に聖会を開かなければならない

これは、教会生活になじんだクリスチャンなら「第7日というと、日曜日の礼拝の日の事だよね!え?月曜日も礼拝の日?」って思うかもしれません。

これは、過越しの祭りの期間が7日間つづくので、最初と最後の日に特別な礼拝をしなさいということです。

過越しの祭りの間は種のないパンを食べ、第1日目と第7日目は、食事の用意をする以外のしごとはやっちゃダメということです。

これは、神様の方を向いて、神様と礼拝をして過ごす事に集中しなさいという事だったんでしょうね。

つまりこれは、過越しの祭りの間の臨時の「安息日」でした。

エジプトを撃たれるときに、わたしたちを救ってくださった神様のことを覚えて礼拝をするための、そういうとても大事な決まり事です。

神様の過越し

モーセとアロンは、イスラエルの長老たちのところへ向かい、そして、神様に言われた通りにそのようにしなさい、と言いました。

つまり、各家庭ごとに1頭の子羊を用意して、それをほふり、その血を入り口の柱とかもいにつけなさい。

朝まで一人も家の外にでてはいけません、と。

出エジプト記12章23節

主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入り口の二つの柱にある血を見て、主はその入り口を過越し、滅ぼすものが、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。

あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。

あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。

もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、あなたがたは言いなさい。

『これは主の過越しの犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』

そして、その夜、エジプト中で深い深い悲しみがおこりました。

神様が警告された通り、エジプトのすべてのういご、つまり最初に生まれた子がすべて神様の手によって撃たれてなくなりました。

モーセとアロンに伝えられた全ての災いは全ていった通りになり、苦しめられました。

散々苦しめられてわかっていたはずなのに、なぜ、モーセ達に告げられた時に信じて言う通りにしてやらなかったのか。

パロは悲しみのどん底の中、悔やんでも悔やみきれず、そして、まだ夜のうちにモーセとアロンを呼び出しました。

「おまえたち、出ていけ、もう出ていけ、子供も家畜も全てつれて出て行け!!」

神様に言われたとおり、最後はパロも心が折れ、そして神様の力強い手によって、エジプト人達はイスラエル人たちをせきたてるように追い出しました。

もう冗談ではない、これ以上イスラエル人をとどめておいたら、最後は我々全員殺されてしまうかもしれない。

イスラエルの人たちはせきたてられて、まだ種をいれていないパンの練り物をもって急いでエジプトを飛び出しました。

また、神様のいいつけ通り、服や装飾品、金や銀などをくださいと言うと、エジプトの人たちは願いを聞きいれてなんでもわたしてくれました。

こうして、430年ものあいだエジプトで過ごし、そして奴隷として長い迫害される生活を送っていたイスラエルの人々はエジプトから解放されました。

現代のエジプトと救い

この日本では奴隷制度もなく、わたしたちは理不尽な苦しみを・・・仕事によっては受けている人もきっといるでしょうね(笑

不自由の少ない生活といいましたが、苦しんで過ごしている人たちはたくさんいます。

人間関係や経済の苦しさ、仕事がうまくいかない、忙しくてやりたいこともできない、あれもしたい、これもしたいということもあるでしょう。

わたしたちは、そういう今の生活にとらわれて心が充実していない、そういう生活を送ってる人もいるのではないでしょうか。

わたしたちの多くは、この現代の中で近代的な生活をおくれていますが、まわりは罪と誘惑で溢れています。

わたしたちは、あらためて神様のもとへ立ち返り、そして、神様からの裁きに合わないよう過ぎ越してもらえるしるしが必要です。

そのしるしとはなんでしょうか。

それは、イエス様の流された血です。

イエス様は、わたしたち全ての人たちの罪をゆるされ、そして、裁かれて滅びないよう、自らが生きた聖なる供え物として血を流されました。

わたしたちは、イエス様を信じてそのことを受けれなければいけません。

それは、ただ単にバプテスマを受け、「信じます」と形式的に言うだけのことではありません。

霊的に神様の事を信じて正しい生活をおくれるよう、心の中の「古いパン種」を取り除かなければいけません。

わたしは残業だらけで報われない仕事を退職して無職になった人には「卒業おめでとうございます!」って言ってねぎらったりする事もあるんですけど、

罪だらけの中で神様に立ち返って、そしてイエス様を信じて神様からの裁きを過ぎ越してもらえた人には「過越しおめでとう!!」って言ってあげるのもいいよねって思いました。

それでは、お祈りしたいと思います。