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出エジプト記34章「慈しみと真との豊かなる神」

神様の本質

モーセは神様から友と呼ばれ、神様はモーセからの「どうぞあなたの栄光をわたしにお示しください」という言葉に対して「いいでしょう、しかし、わたしの顔を見ると死んでしまうから、わたしの通った後を見せてあげましょう」とお応えになりました。

神様の通り過ぎた後には、神様が行われる諸々の善の結果、つまり、良い事の結果があり、そこに恵みの痕跡が残ります。

34章6節では「主は彼の前を過ぎて宣べられた」とある箇所がまさに、ここになります。

出エジプト記34章6~7節

6. 主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ること遅く、いつくしみと、まこととの豊かなる神、
7. いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。

33章ではモーセは、神様の栄光をお示しくださいとお願いしましたが、内心ではお顔を見たいと思っていたのだと思います。だから、神様は「顔を見ると死んでしまうので、後ろ姿だけ見せてあげよう」といいつつも、6節では神様がモーセの前を通り過ぎながら御名を宣言しました。

モーセが見たのは「神様の後ろ姿」でしたが、聞いたのは、神様の御名そのもの、つまり神様の本質・性質の宣言でした。

神様はご自身を、ただ姿でなく、御言葉によって示されるお方です。ヨハネはこう記しています。

ヨハネによる福音書1章1節

1. 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

聖書にも書かれていますが、言葉は神様で、モーセは神様を見る事はできませんでしたが、お腹にずっしりと響く神々しくも重厚な神様の宣言を、モーセは聞き、体全体で神様の栄光そのものを感じ取ったのだと思います。

あわれみあり、恵あり

34章6節の「主、主、あわれみあり、恵みあり」とありますが、ここは、33章19節の「わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」と対応しています。

33章 → 「神様の主権の宣言」(わたしが決める)
34章 → 「神様の性質の宣言」(わたしはそういう者だ)… חַנּוּן וְרַחוּם(ハンヌーン・ヴェラフーム)

つまり、誰をあわれむのか、誰に恵むのか、それは、「わたしが決める、わたしだけが決める」という神様の絶対主権の宣言になります。

怒るに遅い神様

神様は忍耐の神様です、「怒るに遅く」とは、ヘブライ語で「אֶרֶךְ אַפַּיִם」(エレク・アッパイム)となり、直訳すると「鼻が長い」となります。

怒ると鼻が膨らむ・赤くなるというヘブライ的身体的な表現から来ていて、「鼻が長い=すぐに膨らまない=怒りが遅い」という意味です。

これは、単なる「温厚」であるということではありません。

「爆発するまでの距離が長い」=忍耐・猶予・待ってくださる神様

という性質を指しています。

創世記15章15~16節

15. あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。
16. 四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです。

ここは、神様がまだアブラムだったころのアブラハムに、この土地をあなたの子孫に与えると約束しましたが、それには何百年もかかると仰いました。その理由がアモリ人です。

アモリ人は悪人でしたが、まだ、アモリ人を滅ぼしてその土地を与えるには猶予がありました。

アモリ人は悔い改めるかもしれない、悔い改めの余地がある間は裁かない、だから待つ。

神様の「怒るに遅く」のスケールは数百年の歴史スケールなのです。それは、ひとりも滅びることを望まれてないからです。裁く力を持ちながら、罪びとに悔い改めの扉を開け続けるため、すべての人を今すぐ裁かず神様は待っておられます。

父の罪を三、四代におよぼす者

神様は、罪を決して許されない方です。もし、あなたが悪い事をすれば、神様の罰は三代から四代にまで及んでしまいます。

なんと恐ろしいことでしょうか、もう自分の代はおしまいです、神様の罰が一生続くわけですから。それだけじゃなく、子供や孫、ひ孫も苦しむ事になります。

しかし、神様が罰を与えられるのは、私たちを永遠に苦しめるためではありません。

罪の重さを知り、神様に立ち帰るようにとの、愛ある警告です。

この神様の「きびしさ」が、実は恵みの文脈の中に包まれています。

「親の罪は三、四代まで続く」ということは、「三、四代」で終わります。

つまり、「神様の与える罰には上限がある」という宣言でもあります。

人間の感覚では、三、四代でも十分しんどいです、でも、神様スケールで読むと、

「神様の怒りは永遠には続かない、必ず終わりがある」という約束でもあります。

エレミヤ書31章29~30節

29. その時、彼らはもはや、「父がすっぱいぶどうを食べたので、子供の歯がうく」とは言わない。
30. 人はめいめい自分の罪によって死ぬ。すっぱいぶどうを食べる人はみな、その歯がうく。

「このすっぱいぶどう」とは、わたしは食べた事がないのでわかりませんが、食べると歯がキシキシする、浮く感じがするらしいのですが、つまり

「父親がすっぱいぶどうを食べたのに、なぜか子供の歯が浮く」

つまり

「自分がやってないのに、なんで自分がキシキシするねん!」

という理不尽さをあらわしてます。

この聖書の個所、エレミヤは、この諺に対して、神様は預言者を通じて「もうそんなことわざは言わなくなる」「それぞれ自分の罪で責任」を負う。

と宣言されることになります。

いつくしみを千代まで

「いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者」

神様のいつくしみは、千代までと書かれています。

すごいですね、罪の報いは三、四代ですが、いつくしみは千代です、さて、いったい何年くらいでしょうか、仮に、1代が25才で次の子供を産むと仮定して、4代で100年です、計算すると、1000代はおよそ25,000年という計算になります。

でも、実はこの千代というのは、数字の問題ではないんです。ヘブライ語の「千代」は「אֶלֶף דּוֹר」(エレフ・ドール)といい、「אֶלֶף」(エレフ=千)は、大きな数字の象徴的表現としてよく使われています。

子供でわかりやすく例えると

「わたしの戦闘力は53万です」

と同じで、「果てしなく」という意味合いを含んでいます。

この「千代」と「三、四代」を対比させてみると、とても面白い事がよくわかります。

「罰」は、「三、四代」では有限で終わりがあります。

「恵み」は、「千代」では無限に続きます、終わりがありません。

罰には具体的な上限を示し、恵みには象徴的な無限を示す。この非対称性こそが、神様のメッセージです。

神様の怒りには「三・四代」という終止符があります。

しかし、恵みには終止符がない。

「千代」とは「永遠」なのです。

慈しみと真との豊かなる神

神様の慈しみを表すお話は、聖書の中でたくさん出てきます。マタイによる福音書の20章から、イエス様のされたたとえばなしです。

天国の例え

ある日、ぶどう園を営む井上さんは朝早く市場へ行き、山田さんに声をかけました。「今日一日働いてくれませんか、日当1万円でどうぞ」。山田さんは喜んで引き受けました。

その後も井上さんは9時、12時、3時、そして夕方5時にも市場へ行くたびに、ぼんやり立っている人たちを見つけては次々とぶどう園へ送りました。

夕方、日当を払う時間になりました。最後に来た人から順番に、全員に1万円。

山田さんはそれを見てワクワクしました。「あの人たちが1万円なら、朝から働いたわたしはもっとだ!」
ところが山田さんの手に渡ったのも、同じ1万円でした。

「たった1時間の人と、炎天下で丸一日働いたわたしが同じとは!」と山田さんは怒りました。

井上さんは静かに答えました。「最初に1万円と約束しましたね。わたしはただ、最後に来た人にも同じだけ払ってあげたかっただけです。わたしがわたしのお金を自由にするのは当たり前じゃないですか、わたしの気前のよさを、あなたはねたむのですか?」

このお話で大切なのは、主人が市場を出歩いては人々に声をかけることです。

これは神様からの一方的な恵みの招きです。

声をかけられた人たちはその招きに応じてぶどう園へ向かいました。

モーセも同じように、神様の命に従ってシナイ山を登ったからこそ、神様の栄光にあずかることができました。

神様の恵みは、働きの成果や努力の量によって与えられるのではありません。少ししか働けなかった人も、一日中働いた人も、等しく受け取りました。

大切なのは働きの大きさではなく、声をかけてくださった神様に応えて、神様の方を向くことです。

神様はだれひとり滅んでほしいとは思っておられません。怒るに遅く、悔い改めを忍耐して待ち続けてくださいます。

神様に顔を向け、その招きに応えるなら、神様は惜しみなく恵みを注いでくださいます。

神様は今も、わたしたちの心の中に聖霊様を通して、神様のぶどう園へと招かれています。

神様の恵みに預かれるよう、神様に立ち帰れるよう、お祈りしたいと思います。

城尾淳一