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出エジプト記33章「恵みを得させてください」

悔い改めるイスラエルの民たち

出エジプト記33章1,3節

1. さて、主はモーセに言われた、「あなたと、あなたがエジプトの国から導きのぼった民とは、ここを立ってわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にのぼりなさい。
3. あなたがたは乳と蜜の流れる地にのぼりなさい。しかし、あなたがたは、かたくなな民であるから、わたしが道であなたがたを滅ぼすことのないように、あなたがたのうちにあって一緒にはのぼらないであろう」。

神様はイスラエルの民たちをとても愛しておられましたが、彼らはすぐ神様の道から外れて大きな罪を犯してしまうため、怒りのあまり滅ぼしてしまうことを懸念しておられました。

彼らを愛するが故の宣言でしたが、イスラエルの民たちにとっては非常にショックでした。

彼らは神様の道を離れ、偶像を造り、それを拝み、生贄を捧げて、「これがわたしたちをエジプトから導き出した神だ」と宣言してしまいました。麻雀で言えば四暗刻、役満の罪で、3000人が処されたわけです。

もうだめだ、我々は神様に見放されてしまったのだ。

彼らは悲しんで悔い改め、身に着けていた飾りを取り外しました。

しかし、この民たちはこの後、40年も荒野を彷徨い、その世代は約束の地に入れずに死んでいくことになります…でも今はまだその前の話です。

なすべきことを知るであろう

出エジプト記33章5節

5. 主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは、かたくなな民である。もしわたしが一刻でも、あなたがたのうちにあって、一緒にのぼって行くならば、あなたがたを滅ぼすであろう。ゆえに、今、あなたがたの飾りを身から取り去りなさい。そうすればわたしはあなたがたになすべきことを知るであろう』」。

「なすべきことを知るであろう」のヘブライ語原文(אֵדַע / エダ)は「知る・判断する・決める」という意味です。「あなたがたの態度を見て、わたしがどうするか決める」というニュアンスです。

つまり「お前らは頑固やから一緒にいたら滅ぼしてしまう。せやから飾りを外して反省の態度を見せなさい。そしたら次どうするか考えたるわ」となります。

神様は決して冷たく突き放しているのではありません。「滅ぼす」と言いながら「飾りを外しなさい」と言っているのは、まだ終わっていない、悔い改めれば道がある、という恵みのメッセージです。

イスラエルの民たちが飾りを外したのは、ヘブライ文化では悲しみや悔い改めの時に装飾品を外す習慣があるからです。これは礼拝規定ではなく、罪を犯した民の心からの悔い改めの表れでした。この箇所が伝えているのは、民の心が砕かれた、その一点です。

モーセのとりなし

モーセは宿営の外の離れたところに幕屋、今でいうテントを設置し、そこを会見の幕屋と名づけました。宿営の外に置かれたということは神学的に意味があります。神様はすでに罪を犯した民から距離を置いておられた、という描写です。

すると、その幕屋の前に神様の臨在のしるしである雲の柱が現れました。

幕屋の中では、神様はモーセとまるで友のように語られていました。それがどれほど特別なことか、後の民数記にこんな場面があります。

民数記12章8節

8. 彼とは、わたしは口ずから語り、明らかに言って、なぞを使わない。彼はまた主の形を見るのである。なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れず非難するのか。

これは、モーセの兄アロンと姉ミリアムがモーセに嫉妬して不満を言った時に、神様が叱りつけた言葉です。他の預言者たちには夢や幻、謎という形で神様の言葉を伝えますが、モーセには謎を使わず直接語りかけ、神様の形さえ見えていました。それだけ心を許した、唯一無二の特別な存在だったのです。

そんなモーセは神様に語り掛けます。

「神様、なぜこの民たちを導きなさいというのに、一緒に行って下さらないんですか? 神様が一緒でなければわたしはいきません」

モーセは食い下がります。そしてさらに続けます。

「神様、一緒にいきましょう。どうかあなたの前に恵みを得させてください、この国民があなたの民であることをどうか覚えていてください」

「あなたの前に」というヘブライ語「בְּעֵינֶיךָ」(ベエイネハ)は直訳すると「あなたの目に」です。つまりモーセは「わたしたちが恵みを受けられるかどうかは、わたしたちの功績ではなく、あなたがそう見てくださるかどうかにかかっています」と、完全に神様に委ねた訴えをしていました。

さらに「あなたの民」という言葉は「神様、この民はあなたのものです」という訴えです。罪を犯した民のために、神様の約束そのものを根拠に神様へ訴える。これがモーセのとりなしの姿です。

神様は答えられました。「いいだろう、わたし自身が一緒に行ってあげよう、そしてあなたに安息を与えてあげよう」。ここでの安息とは、神様が共にいてくださることそのものが魂の安らぎとなる、という意味です。

モーセはさらに重ねてお願いします。

「もし神様が一緒でなければ、約束の地へ行かせないでください。わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある庶民と異なるものになるからではありませんか」

神様が一緒にいてくださることそのものが恵みなのです。とにかく神様、一緒にいてください!!という、熱烈に神様を求める信仰の塊のような訴えでした。

神様は仰いました。「あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう」。

名をもって知るとは、ヘブライ語ではその存在を深く・親密に知るという意味です。神様にとってモーセは、名前で呼ぶほど親しい者として認識された、唯一の存在でした。

モーセという人

モーセは神様に「あなたの前に恵みを得させてください」とお願いしました。これはどういうお願いだったのでしょうか?

「わたしを祝福してください」でしょうか?「この世の富を与えてください」でしょうか?「わたしを救ってください」でしょうか?

違います。「恵みを得させてください」とは、「わたしはあなたに値しない者です。それでも、あなたの自由な意志で、目を向けていただけないでしょうか」というへりくだった懇願です。

権利を主張せず、条件を出さず、ただ神様の善意に全てを委ねる。これがとりなしの姿です。

神様にとても愛されていたモーセは、それゆえに深く謙虚でした。そして謙虚であったからこそ、大胆に神様の前に出ることができました。謙虚さと大胆さは矛盾しません。神様を深く知る者だけが、この言葉を口にできるのです。

恵みを得させてください

出エジプト記33章を読むと、モーセがどれだけ謙虚で、神様を深く信頼し、神様に愛されていたかがよくわかります。そして、よくわかるからこそ、こう考えてしまうかもしれません。

「わたしはモーセと比べるとなんとダメな人間なんだろう。

謙虚でもない、神様を深く信頼しているのかそれすらも怪しい。

日曜日の礼拝が終わり、月曜日になるとまた世の中の楽しい事にうつつを抜かしてしまう。

とてもじゃないが、神様に『恵みを得させてください』とお願いできるはずがない」

しかし、モーセが「恵みを得させてください」と言えたのは、モーセが凄かったからではありません。

むしろ逆で、神様が先にモーセを愛してくださったからです。

出エジプト記33章17節

17. あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう

すべては神様が先です。

神様が先に「わたしはあなたを知っている」と言ってくださったから、モーセはその言葉に応えて大胆になれました。

神様はわたしたちの名前を知っておられます。

たとえ罪びとであろうと、能力のない者であろうと、神様はあなたに一方的な恵みを注いでくださっています。

神様が先にわたしたちを愛してくださったから、だからわたしたちも大胆に「恵みを得させてください」と神様の前に出ることができるのです。

人間の努力に決してよらない。

これはものすごく大事なことですね、カルトではこうしなければ救われない、寄付をしなければならない、カルトの幹部や偉い人に従わなければならない

など、人間が人間に対して努力を求められます。

努力にかかわらず神様が恵みを得させてくれるなんて、そんな都合のいい話あるわけがない、そういわれるかもしれませんが、ここが一番大事なところです

全てにおいて、神様からの働きかけがあるという事が一番大事なのです

あなたが何者かは関係ない、神様はあなたの名を知り、そして恵みを与えてくださいました

だから、わたしはダメだと嘆く必要はありません、ただただ、へりくだって、神様の恵みに応えて『恵みを得させてください』とお祈りいたしましょう。

城尾淳一