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出エジプト記3-4章「わたしは必ずあなたと共にいる」

さて、エジプトの王パロの娘のもとで育てられたモーセはある日エジプト人を誤って殺してしまい、王様に追われる身となりました。

しかし、数十年過ぎ、モーセの命を狙う王様も寿命で代替わりし、次の代のパロが王様となりました。

そんなある日、モーセは羊を連れて神の山ホレブに来ると不思議な光景を目にしました。

目の前で燃え盛る炎に包まれた木がありましたが、その木は燃え尽きることがありませんでした。

モーセは不思議に思って何故その木が炎に包まれているのに燃え尽きないのか確かめるために近づこうとしたその時、神様の声が聞こえてきました。

「モーセよ、モーセよ」

「はい、ここにおります」

「ここに近づいてはならない、靴を脱ぎなさい、あなたがいるのは聖なる場所です、わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神です」

モーセは突然語り掛けてきた神様の声に恐ろしくなりました。

神様を見た人は必ず死ぬと言われています、モーセは神様を見ないように、その顔を隠しました。

神様はモーセに、イスラエルの人々がエジプトに苦しめられており、助けを求めていることを、そして、神様はそのイスラエルの人々を助けるためにモーセをリーダーにすることを言いました。

神様はアブラハムの時から約束していた、乳と蜜の流れる地をあなたがたに与えると言った言葉を今こそ果たす時だと、そしてそのためにイスラエルの人々を導く人として、モーセを遣わせる事をご計画されていました。

神様のご計画による使命は人にとっていつも唐突にやってきます。モーセもいつものように平穏に羊を連れてホレブの山へやってきただけです、今日も羊に草を食べさせ、水を飲ませ、そしていつものように家へ帰っていつもの生活を過ごすはずでした。

突然の神様の言葉にモーセはとても驚き、そして言いました。

「わたしはそんな立派な人間ではありません、そんな大変な役目を背負ってパロに立ち向かうなど、とんでもないことです」

ある日突然、準備も何もできていないのに、大きな仕事を任されて戸惑わない人などいません、モーセの訴えは人にとっては最もなものだと思うことでしょう。

神様はそんなモーセを安心させるために言いました。

「わたしはあなたと必ず一緒にいます、あなたはイスラエルの人々を救い出し、この山でわたしに仕えるでしょう」

大変な事になりました、モーセははっきりいって自信がありません、なんとか神様にお願いしてこの大きな役目から逃れたいと思いました。

「イスラエルの人々はわたしを信じてくれるでしょうか?『あなたたちの先祖の神様からわたしはつかわされました』と伝えて『その神様はなんという名前なのですか?』と聞かれたらわたしはどう答えたらよいのですか?」

「イスラエルの人々には『わたしは有って有るもの』という方からつかわされました、また、『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言いなさい、これはわたしの永遠の名前です。

 イスラエルの長老たちを集めてこう言いなさい、『あなたがたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主は、わたしに現れて言われました「わたしはあなたがたを顧み、あなたがたがエジプトでされていることを確かに見た。それでわたしはあなたがたを、エジプトの悩みから導き出して、カナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの地、乳と蜜の流れる地へ携え上ろうと決心した」と』

 彼らはあなたの声に聞き従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところへ行って言いなさい、『ヘブルびとの神、主がわたしたちに現れられました。それで、わたしたちを、三日の道のりほど荒野へ行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげることを許してください』と」

「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と神様が何度も強調して仰っているのは、神様が歴史の中で彼らと契約を結んで、それを永遠に守ってくださっているという事を強調しておられるからです。

イスラエルのかつての先祖である彼らとの約束を守るためではありますが、簡単に奇跡を起こしてエジプトをこてんぱんにやっつけ、そして神様の手で彼らを約束の地へ運んでめでたしめでたし、そういう人間にとって都合の良い展開という事は神様はよしとはされませんでした。

神様が導く人たちには試練を通して神様を信じる心を持ち、神様に立ち返る、そういう人々である必要がありました。

神様はさらに言いました。「しかし、エジプトの王はとても硬い心をもっているので、そう簡単には首を縦にはふらないでしょう、だからわたしは数々の奇跡でエジプトを打ちます。その後エジプトはあなたたちを開放するでしょう。エジプトを出る時には手ぶらで出てはいけません、エジプトの人々から金や銀の飾り、服をもらってから出るようにしなさい」

モーセは神様の言葉を聞いて、それでもこの使命を受ける自信がありませんでした。

あの血気盛んな、若い頃、イスラエルの人々をエジプト人から救おうとしてたモーセはどこへ行ったのでしょう。

「しかし、イスラエルの人々はわたしの事を信じてくれないでしょう、神様からつかわされたなど、嘘だと」

神様は尋ねました

「あなたの手にもっているそれはなんですか?」

「杖です」

「それを地面に投げてみなさい」

モーセが言われた通りに杖を地面にポイっと投げるとその杖はなんと、ヘビになりました。

神様はなかなか言葉で信じて行動しないモーセに、奇跡をおこしくれました。ヘビのしっぽをつかむと、ヘビは元の杖にもどりました。

「これは、彼らイスラエルの先祖たちの神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、あなたに現れたのを彼らに信じさせるためです」

次に神様はこう言いました

「あなたの手をふところに入れてみなさい」

モーセが言われた通りにふところに入れて、出してみると手がらい病になって真っ白でした。今でいう「ハンセン病」でした。出エジプト記に出てくる「らい病」は、当時の人々にとって非常に恐れられた病気でした。

聖書の時代には「不治の病」「神の呪い」と考えられていました。そのため、らい病にかかった人は社会から隔離されることもありました。

もう一度、ふところに入れて出すと、らい病はきれいになくなっていました。

モーセは何度も「私は無理です」と言い続けるので、神様は「わたしが力を持っていることを示すから大丈夫だ」と証拠を示されました。

「イスラエルの長老たちが信じなければ、2つ目の奇跡を見れば信じるでしょう、それでも信じなければ、ナイル川の水を地面に撒きなさい、そうすればナイル川の水は血に変わるでしょう」

この時代には手品やCGというものはありません、私たちは現代の映画や映像技術、手品などを知っているため「ありえない映像」や「トリック」を見ることにある程度慣れていますが、当時の文化では、目に見える現象=絶対的な事実 という感覚があり、「これは本物だ」という確信を持ったはずです。

しかし、それでも信じないという人たちは存在します。モーセ自身「こんな大役を自分が果たせるはずがない」と思い込んでいました。人間の不安や疑いは、時に目の前の事実よりも強く働いており、奇跡を見ても「でも、自分には無理です」と考えてしまっていたのでしょう。

結論として、奇跡を見ても、人間の心はすぐには変わることはできなかったのです。

神様が根気強く奇跡を見せてもモーセの心は後ろ向きでした。

「主よ、わたしは昔から話をするのが上手ではないのです、きっとあなたの言った通りにはできないでしょう」

「あなたの口はわたしが与えたものです、しゃべれなくする事も耳を聞こえなくしたり目を見えなくするのもわたしです、だから大丈夫です、わたしはあなたと一緒にいて、あなたが言うべき事を教えます」

ここまで言われて、モーセは心を動かしたでしょうか、残念ながら、モーセはまだこの役目から逃れようとしていました。

「主よ、どうかわたし以外の人をおつかわしてください」

とうとうここで神様は怒り出しました。

出エジプト記4章の14節

「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか。わたしは彼が言葉にすぐれているのを知っている。見よ、彼はあなたに会おうとして出てきている。彼はあなたを見て心に喜ぶであろう。あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、彼はあなたに代わって民に語るであろう。彼はなたの口となり、あなたは彼のために、神に代わるであろう。あなたはそのつえを手に執り、それをもって、しるしを行いなさい。

神様は何度も何度も断ろうとする上に「わたしは口下手です」と逃げようとするので、代弁者としてアロンを用いられました。

「あなたは彼のために、神に代わるであろう」というのは、モーセの予言者としてアロンを用いられましたが、神様の意思を受け取り、神様に代わる権威を授けられたのはモーセということです。

出エジプト記7章1節

主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする。あなたの兄弟アロンはあなたの予言者となるであろう。」

つまり、モーセは神様に権威を与えられた神様の代理人であり、アロンが予言者として神様から与えられた言葉をモーセから受け取り、語るという関係になりました。

何故、神様は能力のあるアロンではなく、モーセを選ばれたのでしょう。また、何故血気盛んでやる気に満ちていた若い頃のモーセではなく、すっかり心がしおれて弱気なモーセだったのでしょう。

ひとつは、モーセを用いられる事がそれが、神様のご計画だったからです。

神様は能力のある強い人ではなく、能力のない弱い人を選ばれます。それは、神様の助けがあればできない事がないということを示すためでもありました。

しかし、想像してみてください、モーセには愛する奥さんがいて、子供が・・・いたかな?

エジプトから逃れて今は平穏な生活のなかでゆったり羊を飼う毎日、充実していたかはわかりませんが、それでも幸せな毎日だったでしょう。

それが、あなたは神様から選ばれました、さぁ、奮い立って困難にあっているイスラエル人の同胞をエジプト人の手から救い出しましょう。

あなたは神様の代理人となって彼らを導く旅に出なければいけません。

すべての生活を捨てて、神様に従わなければいけない。尻込みするどころか、ものすごくお断りしたい、できることなら他の人に代わってもらいたい。自分の生活がなくなるのであれば誰でもいやだと思ってしまうのは無理のないことではないでしょうか。

あなたは神様の代理人となって、今までの生活を捨てて街の中へ出て、そして神様の言葉を伝える以外のことをしてはいけません、安心しなさい、あなたの生活は保障します。

いきなりそう言われて「はい、従います」と言えるでしょうか? そう思えばモーセが何度も「わたしには無理です」と言ったのも理解できると思います。

しかし、神様はモーセを選ばれたのです。

神様の言葉には力があります、神様が「そのようになれ」と言われた事は全てそのようになります。

神様は奇跡をおこして自分の力を示されました。そして、わたしが一緒にいる、どうしてもしゃべれないなら代弁者を用意しようと計画の中に人材をも加えられました。

神様のご計画からは決して逃れる事はできません。

わたしたちは、神様から使命を与えられた時、きっとそれは何も準備が出来ていない予想していないタイミングでやってくる時かもしれません。

わたしたちも、神様のご計画の中で生きています。その時「あ、これは神様のご計画のタイミングなんだ!」とわかる時かもしれません。

そのときわたしたちは準備が出来ているでしょうか、そのとき慌ててオロオロと狼狽えてしまうのかもしれません。

しかし、神様は必ず万全に備えをして「大丈夫だよ、わたしが必ず一緒にいる、わたしが一緒にいてあげる、さぁ、一緒にいこう」とわたしたちの手を引っ張ってくださいます。

その時わたしたちに必要なのは、「神様を信じる」ことなのだと思います。